2019年5月29日水曜日

肯定される暴力・絶望の図式

めっちゃひさしぶり。
このページを用意してくれたOGシラハタさんにもうしわけござらん。
また書くぜ。

ここ数日で両極端にある暴力をみた。
肯定される暴力と、否定されるべき暴力と。

前者はもちろん五芸ラグビーで、後者は不謹慎かもしれんが、つい
先に起きた、通り魔事件。
不幸にも被害あわれた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
子のある親として、教育の仕事に携わる者のはしくれとして、
やり切れない思いにたえません。

ラグビーは、ルールがあるとはいえまったくもって暴力的なスポーツ
である。ご存知のように体をひしぐほどにぶつけ、息も止まれよと
タックルに走り、あのポイントに踏みにじられても文句も言えない。

なぜだ。

それは我々が変態で・・・いやそうではなく・・・そうでないこともないが、
つまりなんだ、トライを目指して前に進むからだ。
苦痛や犠牲の末に得られるかもしれない、漠然とした喜びを
希求しているからである。
勝利への希望、トライこそ、痛みや理不尽な疲れを肯定できる
明確な目標、光といってもいいと思う。
徹頭徹尾ポジティブな方向に我々プレーヤーは走り続けている。

光を指向する暴力。それがラグビーの一面ではある。

対して、物理的なエネルギーは同様なものながら、犯罪における
それはどうか。



誰でも、しばいたろか、奥歯ぽきぽきいわしたろか!など、思うだけなら
するだろう。あまつさえ、殺意なども。
しかし、そうした思いだけのものと、実際行動に移されたそれとには、
とんでもない隔たりがある。ように思う。
その飛躍の原動力はなんなのだろう。今回の事件をはじめとする
不特定多数、無差別な犯罪におけるものは。
それは、少なくとも前述の「光」からは絶対に出てこない種類のものだ。
なおかつ、向かう先さえ持たない爆発的な力。

専門的な知識など持ち合わせないハマモトがしたり顔で言うのは
まったくお門違いながら、「絶望」という言葉が頭に浮かぶ。

幸運にも自分はいまだ絶望を知らない。心底、よかったと思う。
かっこつけて絶望したふりをしたことくらいしかない。
しかし、誰も助けてくれない真っ暗な闇の中にあって、自分と対極にある
ものを見たとき抱く思いはどんなものだろう。
自分を照らす何かを求めるだろうか。あるいは、強い光に照らされて
ますます濃くなった自分の影を実感してしまうのだろうか。

わからない。ほんとうにわからない。

ニュースを信じるなら、犯人はなぜたくさんの人を傷つけ、自分を刺さねば
ならなかったのか。
たくさんの人に当たって傷つけさえして、自分自身が犠牲になるなら、
ラグビーのほうが百万倍いいのに。
いわば暴力に身を置いて戦う我々を見て、周りの人はにこやかに
見守ってさえしてくれるのに。

光に向かって走る暴力としてのラグビー。
闇ともいえる絶望の爆発から出てくる暴力としての犯罪。

似ていながら、向かっていくものと出てくるもの。
同じような質量ながら、希望への力と絶望からの力。

奇妙な感覚に襲われたのである。

再度、不幸に見舞われた方々に祈らざるを得ない。





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