2009年12月31日木曜日

ラグビー映画

クリント・イーストウッド監督の映画が、来年上映される。

「インビクタス・負けざる者たち」

1995年、南アフリカ開催のラグビー世界杯が舞台である。
ネルソン・マンデラ役でモーガン・フリーマン、南アキャプテン・ピナール役でマット・デイモン。

 まず、主なストーリーがラグビーを中心に 展開されていく人間ドラマである、というのが斬新である。ラグビーは漫画にするにも映像にするにも、難しいスポーツなのに。
成功例は、「スクールウォーズ」くらいしか自分は知らない。

1995年の世界杯と言えば、自分が大学2回生の時で、タイムリーに観ていた大会だけに、感慨が
ないでもない。
それまで海外のラグビーを見たこともなかったので、プレーのすごさに驚きまくっていた。
日本代表が145対17と言うものすごい点差でNZ代表に負けた大会でもある。なんか別のスポーツを
観ているような感じがしたのを覚えている。
NZ代表は、まだ大学生だったSO、アンドリュー・マーテンズ、世界最高のFLと呼ばれていた
ジョッシュ・クロンフェルド、怪物WTBジョナ・ロムーなど、漫画みたいなすごい選手がごろごろ
していた。後はSHのグレアム・バショップ、No.8ジェイミー・ジョセフもいた。この二人は後に日本
代表としても活躍している。
前評判ではNZ優勝というのが濃かった。

それまでアパルト・ヘイトを国是とし、そのせいで世界から孤立していた感のあった南アフリカだが、
同時にそこの代表チームも国際試合に出てくることはなかった。出させてもらえなかったのである。
だから正味な話し、南ア代表がどんな強さなのかよく分からなかったらしい。
しかし決勝戦、NZの相手は南アだった。神がかり的な強さで勝ちあがってきた。
その試合は、80分戦って12対12(お互いノートライ)と言う異常にロースコアなまま10分間の
サドンデス・ゲームに入っていた。
南アは、ロムーの「怪走」を押さえ、NZのゲインを許さない。南アFBのユベールと言う選手は、
手首を骨折しながらもフルで出ていた。そして、恐らく焦ったのだろう、NZのおかしたペナルティから
ゴールを狙い、見事にキックを決めて世界杯初出場で初優勝を成し遂げた南アだったのである。

印象的だったのは、勝利を決めた瞬間、南ア選手達はキャプテンのピナールのところに走り寄り、
輪になってひざまずき、何事か言葉を交わしていた風景だった。何かに祈っているようにみえた。
ぴょんぴょんはねて喜ぶのではなく、厳粛な感じさえした。
その時ネルソン・マンデラ大統領は、代表チーム・スプリングボクスのジャージを着ており、その
背番号はキャプテン、白人選手のフランソワ・ピナールの「6」だった。

ところで、本当に死力を尽くして勝ったとき、人はなぜか「祈り」の姿勢になる。以前ジョージ・
フォアマンの話を記事にしたが、45歳で世界ヘビー級チャンプに返り咲いたとき、かれは自分の
コーナーにひざまずき、やはり祈っていた。神職だから当たり前なのかもしれないが、妙に覚えている。

さて、この映画がどんなものなのか、興味がある。ラグビーの試合の描写とか、大統領と
代表チームの関係とか。でもなにより、ラグビー者としては、やっぱりなんか自分の好きな
スポーツが映画になっている、ということがうれしいのである。
観に行ってみようかと思う。

2009年12月28日月曜日

おもひで2

「おまえなあ」
と、セイジさんは言った。
何か言われるのかな、と酔っ払っていた自分は後頭部に残ったわずかな理性でそう思った。
そしてそのときのセイジさんのお顔を、確かに自分は憶えている。とても鮮やかに憶えている。
おまえなあ、の後にセイジさんはなんと仰られたか?

何も言われなかった。
かたむけたグラスを口元に置いたまま、ふと一瞬遠い目になり、少し寂しげに優しく微笑まれた。
ただ、それだけだった。
酔いどれた自分の「今の自分にはラグビーしかない」なんてな大言壮語を、否定も肯定もされなかった。
そして目が覚めると、北星寮の自分の下宿部屋だった。どうやって 帰ってきたかも憶えていない。
二日酔いの頭痛の中、しかし、セイジさんのあの表情だけは印象深く残っていた。
話は、それだけである。

結局自分はセイジさんが何を仰りたかったのか確かめぬまま今に至っている。
要するに、もう永遠にたずねることはできない。何回か機会はあったが、自分はたずねることをしなかった。
 若造が気を吐くあの場面で、大人がたしなめに言うであろう言葉は想像に難くない。しかし、セイジさんは
あえて言わなかった。そして内容を問うことはいまさらナンセンスであると思う。

自分は今、あの時に何も言われなかったセイジさんの優しさを考える。普通なら、ラグビーが全て!
などとと言う「芸大」生徒をたしなめてるか叱るかが妥当な大人の行動である。
しかし、それを飲み込んで口にしなかったセイジさんは恐らく「分かるまでやってみろ」と言ってくれたのだと信じている。分かっておられたのだ、ええ加減にしとけ、というアドヴァイスが鼻息荒いばか者には水をさすことにしかならないことを。
思い出と言うものは美化され昇華され続けていくものである。残ったもののエゴと言っていいものであるかもしれない。
つまり自分のこの思いは誠に自分勝手な解釈であり、セイジさんの本意だったかは皆目分からない。しかし、たしなめられなかった自分は、一時期、本当に思う存分ラグビーに打ち込めた。ある程度自分なりの納得さえもラグビーに対して持つことができた。
そして、表現の制作に帰って来ることができている。
非常に気取った言い方をしてきているが、それができたのは一重にあの時のセイジさんの寂しげな、優しげな笑顔のおかげであると思っているのである。
言葉でよりももっと分かりやすいものを自分に与えてくださった。
その確認も、御礼をも、できずじまいになってしまっている。

あの時セイジさんは何を言いたかったのか、もっと単純な話かもしれない、しかし自分は、あそこで何も言葉のなかったことにセイジさんへの大きな感謝を感じている。そして、同じくらいの後悔も。「セイジさん、何が仰りたかったんですか。」と。

思い出話を終わる。

2009年12月26日土曜日

おもひで

今回は、セイジさんについての思い出を書かせていただこうと思う。
50周年と言うこともあり、ずっと自分の記憶に引っかかっていたこともあり。

あれは自分達の代の首脳陣が引退した年、季節は忘れてしまった。
セイジさんが我々のためにお疲れ様パーティーをしてくれた。現在のフジイさんのギャラリーの近くの
居酒屋だったと思う。キムラ君、ノハラ君、マスイ君、ハマモト、セイジさん、あとマネージャーの
ジュンちゃんとトモちゃんもいたように記憶する。
そういった集まりは自分は好きなので、たいがい酔っ払った。
ふらふらにはならなかったが、すりガラス越しに見るように風景や人物の輪郭がにじんでいるのである。
だから、それが一体何時で、何件目のお店での出来事であったか、甚だあやふやなのである。

順を追って話そう。
お店の一軒目を出て、二軒目、木屋町のどこかで飲んだ。ええあんばいだった。
三軒目に行こうかというときは、メンバーは首脳陣プレーヤーの我々キム・ノハ・ハマの三人と、セイジさん
の四人であった。そして、何軒目かで、そのときカトウさんが働いておられた(よっしゃではない)お店に行こう
とセイジさんがおっしゃられた。
断る理由などない、ついて行くのみである。歩いた。
そしてそのときの風景は、酔ってはいたが今でも忘れない。

先頭を歩くセイジさんが、すれ違う人という人に、もれなくことごとくメンチを切っていかれるのだ。
しかも、まるでわがための道を歩く王者の如く、肩をハスにもせず直進される。びびった。
場所は繰り返すが木屋町のど真ん中である、コワイ人も多い。
我々三人は顔を見合わせた。一人一人、顔に「ヤバイ」と書いてあった。自分達も酔っていたが、セイジさんも
酔ってはったのだ。
この状態で何分歩いたのかは分からないが、やっと最後の店に着いたとき、心底ほっとした。
反面「この人はすごい」と感心しつつ楽しかったりもしたが、自分としては人生で二回目に血中アルコールが
すーっと消えていくのを感じた。

閑話休題。
当時、引退してすぐ、自分はある縁でクラブチームに入ることとなり、試合にも出させてもらっていた。
そういった時期は若さもあり、勢いもあるので、面白いほど体が動く。ほぼ毎日ラグビーをしていた。
なーんにも考えず毎日を過ごしていた。

ラグビーに逃げていた、と言う方が今考えると当てはまるかもしれない。

しかしそういうこともあって、飲んで気が大きくなった自分は上の飲み会で「自分にはラグビーしかない」という
ようなことを言ったのだ。
その時だ。
グラスをかたむけていたセイジさんがふいに「お前なあ」と言われた。

長いので続く。