2015年9月13日日曜日

美しくあれかしと

ラグビー世界杯、全48試合見たるぜ、と、Jスポーツを
契約しなおした。
普段ほとんどテレビを見ないので、久々でなんか新鮮である。
つらつら見ていると、世界柔道アスタナ大会をやっていた。
小・中・高と柔道部であったので、確実に自分のルーツはそれである。
んで、試合を見ていた。
ほんだらまあ、自分の頃と今と、同じスポーツでも別物のようだったさ。

カラー柔道着は見慣れてきた。そして、東ヨーロッパ選手に顕著な
ご当地レスリング、サンボなどローカルな格闘技のにおいのする、ワイルドな
動きとパワーもむしろ面白い。グルジアやカザフスタンには、「チタオバ」
という古い格闘技もあり、柔道とは全く違う体さばきで相手を放り投げてくる。
技の攻防でほの見えるそういった異質感も楽しい。
そして全体の印象はどうだったかというと、かなり戸惑いを感じた。何度も
頭をひねる場面があった。
そこに感じたのは、
「武道である本質から離れ、その理念を置いてけぼりしたまま
近代スポーツへの道をひた走る、ある種目」
だった。
完全にそうなってはいない。いないがそうなりつつある。
言い方を変えるならば、近代化を図ろうとして、その弊害が出ていると
いえるかもしれない。
そう思ったのは自分が年寄りになったからか。しかし、少し悲しかった。
具体的に言うと
1・「指導」という主審判断が形骸化しており、ただの獲得ポイントになり
  下がってしまっている。
2・技の効果基準があいまいで、かつ低い。各審判における判断にかなりの
  幅ができてしまっている。
3・選手が審判にアピールする。

なにかの過渡期にあるせいなのか、ちょっと驚くほどだった。理由は
試合の合理化、スピードアップを進めるため、というのがよくわかった。
しかしこれは・・・。

1についていうならば、「指導」という意味合いは主審がその選手の試合の
ありようを正していくためのもので、教育的意味が強く、あまり軽々しく出る
ものではかつてなかった。そして、指導1回は試合の勝敗に関係なかった。
だってあくまで指導だもん。
この上で「指導→注意→警告→反則負け」と重みを増していくものであり、
それは「正しい戦いを行いなさい」という指示でもあった。自分がやって
いたころはね。
しかし、現在、指導はそれ以上の重みは持たず、何回出ても指導のまま、
「指導×回数」のただのポイント的考えのようである。なので1回の指導で
試合が不利になるのだ。
また、試合が少しでも停滞すると即座に指導ポイントをとられる。事実、
一試合4、5回出るようなケースもあった。
つまり試合を既述したように迅速化するためか、組んだとたんに動き
続け、始終技をかけ続けねばならず、これは選手にしてみれば常に
急かされているようなもので、呼吸の読みあい、駆け引きが非常に
しづらい。しずかなにらみ合いが不可能になってしまっている。
そうなると、やむを得ず「わざのかけ逃げ」が発生しやすくなるが、
これはルール上反則行為なのである。
反則がおきやすい状態にしてしまう指導とは、どないなものなのか。

最もおかしいと感じたのは、下した「指導」を、主審自身が
くつがえし、「今の指導ナシ」とするのが乱発していたことだ。
試合を司る審判、しかも主審が自分の下した、選手に対する判断を
ゆるがせにするなんて、それはあってはならないことのように思う。
指導しておいて後でそれをなかったものにするのは、そもそも
相手を馬鹿にしている。日本語名称のニュアンスだからだろうか、
大変違和感を感じるのだ。
だってラグビーでは絶対に起こりえないでしょ?同列にするのは強引
かもだが、主審の絶対性が崩れたら試合が成り立たないではないか。

技の効果の度合いを修正することはよくある。事実(映像)確認の
上でトライが取り消しになったりするのと同じだ。しかし、ペナルティーが
取りやめになることは決してないはずなのだ。

「指導」の言葉が意味を失い、ただ「シドー」というポイントの呼称に
過ぎなくなってしまっているように思えた。