2009年2月17日火曜日

懺悔の学内展

正直なところ、最近自分は自分のことを「I am a 作家。」と思い込んでいた。
なんか変な自意識みたいなもんを持ってしまっていた。
否。自分はいまだ何者でもない。
ただの作品づくりが好きなおっさんにすぎないのだった、忘れとった。

制作展の学内展示を見に行ってそう痛感したのだった。
良い展示をしている人たちが多かった様に思う。
四回生や院生が中心だったせいもあったからか、気合の入った、しっかり見せてくれようとしているものがならんでいた。この場合、若さとか元気とか勢いとかいう言葉で差し引くものではないだろう。自分は内心「かなわねー!!」と叫び倒していたのである。
何か学生のほうが作家らしいものを作っているように思ったのは、自分の卑屈な感想からなのだろうか。

ともかく、自分を天狗鼻の未熟者めがとどつきまわしたくなったのだった。

学内展がまだ始まったばかりの頃、自分は暇で、よく大学のグラウンドでボールを蹴って一人練習をしていた。
それもグラウンドに展示されている誰かの作品の横で。もちろんその当時、罪の意識なんぞありはしない、ゼロだ。
今思い出すになんつー不届き千万なことをやっていたのかと恥ずかしい。いっぺんボールをぶつけてしまったことさえあった。
その作品の雰囲気を壊すことはなはだしい、一種のテロリズムであったわけだ。

認識不足というより、愚の一言であったわけだが、改善されたわけではなかった。
だって今回、どうせ学校に行くならと、ジャージとスパイクをかばんに入れ、あわよくば練習させてもらおうと思いながら学内展に足を運んだからである。
グラウンドに展示されていたのは、だれあろうウチヤマ君の作品であった。

「ウッチーごめん、グラウンドのはしっこで練習していい?」

と頼むつもりだった。
ああ、自分は最悪のOBである。

しかし、これは本音であるが、上の申し出をする気持ちは雲散霧消、思いとどまった。
この作品の雰囲気を壊してはいけないと、ふと思ったからである。「ふと」というところがどうもあかんのであるが。
そして自分が抱いていた思いの低俗さにわれながらさぶいぼの立つ思いであった。
そこでストップがかかっただけ、まだ自分にもまともな所があるのだなとも。
それだけ存在感のある作品だったのだろうそして冒頭の自分の思いにつながる。
いまここで練習なんかやったらいけない。と!
当たり前のことに三十路になってやっと気付くなんざあ、くっそー自分に腹が立つ。

そんな気持ちにかられつつ、しゃらずると学内をそぞろ歩くに、くわあ、また他にもいくつかこちらの襟をびしびしと正してくれるものもあるがな。帰り道、自分はむしろ懺悔の気持ちに襲われていたのであった。
ごめんなさい。
自分はまたがんばります。

ほんで今回言いたかったことは何かというと、学内展はなかなかによかったということでした。
あ、また「なかなかに」とか自分は書いとる。
こういう素直じゃない人間を自分の田舎では「しょうから」と呼ぶ。

2009年2月13日金曜日

時間といふもの・および挑戦として

先日記事に書いたクリスチャン・ロアマヌ選手のことについて、二次検査でも陽性となり、罪が確定してしまった。
チームは日本選手権出場を辞退、三月までの対外活動の自粛を宣言、ロアマヌ選手は退部という形になった。おそらく二度とトップリーグには戻って来れないであろうし、まともにラグビーが出来る場所にさえ帰ることは出来なかろう。
検査によってどの程度わかるのかは知らないが、直接的な吸引といわゆる伏流煙では、検査結果が変わってくるのかどうか。また、どの程度さかのぼって大麻吸引を証明できるのか、仮に体から排出されない反応物質があるのだとすれば、自分も陽性になってしまうなと思いつつ、なんにせよやりきれない思いにとらわれている。


先日京芸の制作展を見に行った。いつも思うに、足の踏み場もないほどの、ただただ一生懸命な作品(そうでないものもあるが)に囲まれると、元気をもらうことが出来るが疲れる。決して作品を見るのがいやではないのだが、自分の良くない癖なのだろうが、疲れるのだ。
しかしそして、自分も作品を作りたくなる。

大学を出て十年以上が過ぎた。そして何とはなしに、自分の周りの同回生で今でも制作活動をしている人を一人ひとり思い出しつつ挙げてみたのだが、125人の中で、半分も数えられなかった。
もちろんその活動を知らない人もいようし、就職してがんばっている人もいる。美術から足も洗うも続けるも、良い悪いなどでは全然ない。しかし、自分の今の立場から見て、本当に減ったものなのだなあとちょっと驚愕したのである。本当に半数にも満たないのではないか。

自分の場合卒業してから半年ほど経って、やっと「どんな状況でも作品を作り続けよう」という覚悟が出来た。今でも自分を売り込む方法とか今後の展開とか、よくわからない。
が、売れる売れないは関係なく、そりゃ売れて欲しいが、とにかく自分の好きなやり方で作ったモノを発表したいという思いは変わらない。とか言いながら明日「やーめた。」とか言っているかもしれないのだが、そうやって何とか今まで来た。
そうして制作展を(時間がなく駆け足だったのが申し訳ない所だが)見ていて、「この中でずっとやり続けていける人はどれほどいるのだろう。」という思いに支配されてしまった。あほな妄想相変わらずである。

そしてラグビーも。
制作とラグビーだきゃ死ぬまでやりたい。
物理的にいつか動けなくなって走ることもままならないようになるのだろうが、それまでは走りたい。しょーみな話し、いつまでできるか、挑戦中である(前も書いたか?)。および中国拳法と筋トレも。
ただ現在クラブチームにも行っておらず、ラグビープーな自分なので、たらたら理屈をこねていられるものでは本来ないのだが、自分を追い込む意味もあり、こんな事を書いているとも言える。どなたか、いいクラブチームご存知ではないですか。
そんなことを一生ぶつくさ言っているじーさんになりたくもある。
たぶんそういった目標やらを無くすと自分の場合、一気にボケてしまうだろうとも思うので。

非常に狭い独白の記事になってしまった。ご容赦願いたい。

2009年2月9日月曜日

ハッパはそんなにいいのかい?

日本代表選手クリスチャン・ロアマヌが大麻吸引の疑いでマイクロソフトカップ決勝に出ていなかった。
試合自体はそのことでかえってチームが結束した感のある東芝府中ブレイブルーパスが勝った。個人的には荒っぽさと上手さの同居する三洋電機が好きなのだが、これも勝負、是非もない。

しかし、やはりこういう悲しいことが起こると、何か盛り上がらない。たとえ疑いが晴れたにせよ、一次審査でクロになったという事実、何がしか灰色の部分が生まれてしまう。しかもここ最近、ラグビー関係で大麻に関する不祥事が続いている。好きでやっているこちらとしてはやりきれない思いだ。
東芝府中は、二次検査の結果によっては部として優勝を返上する意思であるという。ある期間のチームの出場停止もあったりするだろう。夢を抱いてプレーを見る子どももいるという中、その思いを踏みにじるようなことをしては、大人として絶対にいけない。
まだ検査結果が出たわけではないからなんともいえないのだが、残念なことである。

何でかと考えるに、海外と日本における「ハッパ」のありようのズレを考える。プロ選手はいざ知らず、海外にいると「みんな持ってる」事に驚く。
大麻をやる習慣が自分にはないのでわからないのだが、どこで手に入るのかなどは、やっている人には「すぐわかる」のだそうだ。
かつて旅行をしているとき、親の遺産を食いつぶしつつハッパを求めヨーロッパ中を旅をしているという日本人に会った。彼に会ったのはパリだったが、手馴れた感じで紙巻を作り、それこそタバコのように吸っていた。そういう人生もありかと自分は思った。
また、飲み屋(パリの)で友人二人と飲んでいると、その二人が「誰かやってるな」みたいなことを言うので何をだとたずねると。
「マリワナ」という。
何でわかるんだと重ねると「煙の匂いが違うんだ。タバコとはぜんぜん違う。」のだそうで。
ちなみにその店はタバコを吸う人ばっかりで天井近くは白く煙っていたのを記憶しているが、それでもわかるのだという。自分はちーともわからんかった。
ふーんと思っていたが、要するに日本とは違い、向こうでは結構当たり前の現象であって、吸っている人の絶対数も半端ではないのだなというのがわかった。
「文化」になってしまっとる部分もあるのではなかろうか。
そのことを実感したのが約十年前だったから、今最近、それが日本に広がってきたということなのかなとなんとなく思う。
そしてラグビー者はいろんな意味で善良でおおらかな人が多いから、すぐばれるのだ。
まあ笑ってられないことではあるが。

とにかく、悲しいと思ったので。

2009年2月2日月曜日

イメージが具現化する

前回の記事で「体で実感しないとイメージが形成されない。」ということを書いた。
今回はそれと180度違う意見を書いて「じゃあどないせっちゅうのん。」という突っ込みを受けてみようと思う。

わがカンフーマスター、チャーリー師父がよく言っていた。
念のために、これはたとえ話ではなく、実話である。チャーリーさんも実在の人物だ、日本人だけどね。
自分が北星寮に住んでいた頃、チャーリー師父は弟子の自分に太極拳を教えながらこう諭してくだすった。

曰く。
「脳天から糸で吊り下げられたように、首を伸ばし、肩を落として立つねんで。」
「空気の球をイメージして、その表面をなでおろしながら前へ押し出す。」
「臍下丹田にエネルギーがたまっていると思って。」
「両手につながったゴムを伸ばすように打ち出す。」

あるいは、踊りを舞っているようにも見える八卦掌の型を教えてくれていたとき。
それぞれの動きの意味を一つ一つ説明され、その動作の効果から相手を打ち倒すイメージを持ちながらでなければ、演舞の意味が無い。型のための型になってはいけないと繰り返し言われていた。
要約するとこうなる。
「イメージを確固たるものにすることで、実戦に役立てる。」
もう一つ。
「正確な動きをすることで、動作の効果を高める。」
とこういうことであったと記憶している。前回の自分の書いたこととはまったく逆であることがわかっていただけると思う。

動作への解釈を確固たる物とし、同時に一連の型の流れの中での無駄な動きをなくしていく、ということを繰り返していくとどうなるか。
動きが鋭く強くなっていくのである。
A点からB点への移動方法について、最短距離を、ということではない。最も効果的なコース(体重移動や歩法)をとるのだ。
この辺りの考え方はほかのスポーツでも共通するだろうし、体験されている方も多かろうと思う。それが理解できると、実践の動きも如実に変っていくのにはやっている本人が驚くほどである。

また、自分のラグビーの物理的な動きを決定的に変えたのは、平尾誠二著「イメージのマネージ」という「本」であった。
それまでただがむしゃらにやってればいいという発想で走っていた自分にとって、その本を読む前と後では、赤ちゃんの自分にいきなり陰毛が生えた位の驚きと成長があった。
すーっと試合の全体像が見えてくるのである。ポジション的にもその頃、No.8にコンバートしたからこそということもあったからかもしれない。
その本に書いてあったことの細部は忘れた。しかしとにかく、自分の思考の回路の配線を変えてくれたことははっきりいえる。
要約して憶えているのは「ボールを血液と考えるとFWやBKはそれを流す血管である。血流とそのテンポが滞らないように血管全体として整備しなければならない。流れ方はそれぞれであるが。」
とか
「BKラインは今まさにはじかれた板ばねである。WTBにボールが渡っていく中、プレーヤーは外に立つ者ほどその速度が速くなくてはならない。」
とか。
ラグビーが天候や戦術、指示の出し方や走る角度などもろもろをひっくるめてやるものだとか、果てはその内容はビジネスに対する考え方にまで拡がっていたのである。え、ビジネス?これラグビーの本じゃないの?と思ったものだ。
その当時の自分のラグビー脳が真っ白に近かったこともあり、目から鱗とはこのこと、百枚は落ちただろう。心の底からおったまげた。
もうちょっと早く知っていればそれまでの人生もう少し楽しめたかもと思うほどに。

イメージさえ持てば、中国拳法さえラグビーの役に立つのである、基礎的な体力をつけておく必要があるとはいえ。
まあようするに、バランスよくやってないといけないということなのだ。ここまでこんだけ書いといて結局それかいという事なのだが。
心と体のバランス。中国に言うところの陰陽五行図のように、陰と陽のバランスが整ってこそ世界の秩序は保たれるのである(なんじゃそら)。話の輪郭がえらい膨らんできたが、しかし、筋トレにおいても、今どこを鍛えているんだというイメージを持って臨むことで効果に差が出るというではないか。意識という形の無いもののあるなしで、筋肉という実体の発達が違ってくるのだ。考えてみれば不思議でしょそれって。

自分なりのはっきりしたイメージとナイスタックルの実感。その相関が試合の流れも左右しうる。ということにしてこの話を終わってもいいかな〜と思うのだがどうだろう。