2007年8月31日金曜日

第一回世界杯


アオヤマさんの学年の二つ上だったか、OBのハマさんから、ひょんなことでラグビーのビデオをいただいた。

見ていると、なんと第一回世界杯の録画であった。

往年の名選手が走りまわっている。
ジョン・カーワンの伝説の90メートル独走トライも入っていた。ルールもまったく今と異なるので、それこそ別の競技のようである。ただ、これは今も変わってはいないが、観客とフィールドの距離の近いことは、うらやましく思われてしまう。殊にちびっこにとっては、選手が間近に見られて倍楽しめよう。

他にもそのときの日本代表の試合も見られ、オーストラリア相手にいい試合をしていることに目を見張った。試合内容でいくと、今より強かったのか?と思えるほどであった。

とりわけ印象に残ったのは、センターで出場していた元トヨタ自動車ヴェルブリッツ監督、朽木英二氏の走りとパスの技術のすばらしさだった。

がつがつ当たるのではなく、何と言うか、

しゅっと来てふわっと浮かす!

と言う感じである。

おそらく対面の選手はわかっていても朽木選手に釣られざるを得なかったのではないかと思う。はしる角度、ボールを離す呼吸、真似できね−よと両手を上げたくなってしまう。
こういう感覚は、磨くことで誰でも身につけられる種類の物ではないだろう。
少なくとも今の日本代表にはこんなことできるような選手はいないような気が・・・。と思ってみたり。


話は変わるが、現日本代表大畑選手が再びアキレス腱を切ってしまった。しかも今度は逆の足である。両足のアキレスを断裂と言う怪我を経験するとは、不運と言うほかない。他にも世界杯が絶望となる怪我をした選手がいるようだが、われわれも京芸OBも、怪我にだけは注意したいものである。

と言うのも、あさっては菅平で現役たちと夏合宿OB戦をせねばならない。
OB側のメンバーはまだ知らないが、よくよく注意を促そうと思う。
怪我は肉体よりもむしろ精神的なダメージが大きいと思うので。

自分自身暗澹とした気持ちで長野から帰りたくはないから。

2007年8月24日金曜日

闘球士として

今回のOB通信の中で、現役前キャプテン澤君の、悲痛と言ってよいだろう、訴えを聞いた。
四芸祭を最大の舞台と定めているわれわれにとって、
愛知の行動、態度は怒りというよりも僕は悲しい。

試合場の外ではだれでも当たり前に紳士たるべきとは思う。
しかしラグビーは紳士のスポーツ、などではない。
その本質は集団的戦闘と呼ぶ以外のなにものでもない。
いったんフィールドに入り笛が鳴らされれば、虎のように暴れ回らねばすまぬ類の競技なはずである。そこに紳士という冠詞は当てはまるようには思われぬ。
あえてスポーツの範疇にとどめるなら、戦士の、あるいは騎士のスポーツである。
ただし、戦士、騎士(武士ともいえる)のといったのには理由があり、そういったものであるからこそ、そこには節度と誇りが存在し、守られる何かが出てくるのだと信じている。
ルール、というものである。

それは抽象的な言葉であるが、
「武士道、騎士道」に近いものなのではないかと思う。


実際プレイをしていたわれわれならば、イメージはたやすいだろう。
だから闘球士であることを忘れ、それらのなくなったラグビーなど、ただのどつきあいである。ノーサイドもへったくれもない。お互い動けなくなるまで引っかき殴り合ったらよろしい。

自分の力至らなさを棚に上げていらだちを第三者に(自分のチームのマネージャーにさえ!)ぶつける、などということを二十歳前後の男がやっているならば、それはもう異常であり、そんなことがまかり通る集団と試合をすれば、消耗するのはわれわればかりなわけであって、そんな相手はぐうの音も出なくなるほどやっつけるか、最初から試合をしないかのいずれかしかない。


変えられるものならば、
現役のため、彼ら愛知県芸ラグビー部のため、その方法はないものか。


あるいは四芸のあり方を根本的に考えてみることも必要なのだろうかとふと思った。

2007年8月8日水曜日

以下、書き綴っていくにあたり

このブログの記事投稿担当、ハマモト。
特にラグビーに関して、つらつらと書いていこうと思う。

われわれは、三宅先生を知っている。
直接お会いしたことはないが、いわゆるOB若手の自分も知っている。

資料や写真を通してだがそれ以上に、上のOBから聞かされてきた、断片的ながらも魅力的な、その人となりに関する話によるところが大きい。今では自分の頭の中では(それが正しい像を結んでいるかは分からないが)色彩を帯びた映像となって三宅先生が動いてさえいる。
そしていつのまにか、先生の言っておられた言葉が、自分のラグビーをプレイする上でのモットーになってしまっていた。曰く、

「底辺で胸を張れ」

良い言葉だと思う。
繰り返しになるが、僕は三宅先生とはまったく面識がない。直接その薫陶を受けたことももちろんない。
しかし氏の教えは、どこからか知らず吹き込んできたかのように自分の中に堆積していた。奇妙といえばそうというほかない。。
しかしそういう意味において、氏は確かに今も生きておられると言ってしまうのは、飛躍に過ぎるだろうか。

そして、今われわれは、谷口青児という人を知っている。

「セイジさん」とお呼びしたほうが、僕は親しみを持ててよい。
僕は当然のごとく直接この人を見、話もした。酒に酔った姿や、あふれる感情に目を潤ませる生々しい姿も見た。長短ひっくるめて、面白い人であった。
セイジさんについて、もっとよく知るOBも沢山いるはずである。
そしておそらくわれわれは、この人についての話を「ゲンエキ」たちにしていくと思う。多少尾ひれもつけつつ、こんな人がいたのだと、ことあるごと語っていくだろう。また僕よりほかのOBが、僕の知らぬセイジさんの一面を伝えるだろう。
そして、それを聞いたゲンエキたちの中に、セイジさんが息づき始めるのだと思う。
もちろんそれぞれ少しづつ違いはあれ、確かに形作られるはずである。その像は、いつのまにやら彼ら後輩の中で「京芸ラグビー」を語りだすのだ。
僕の中での三宅先生がそうであるように。
いまもセイジさんのよく言っておられた言葉で、後輩に対し仰っていた言葉をおぼえている。

「おれは、お前を見てるで。」

見てくれていただけるなら、それに恥じぬOBでありたいし、そういう人間でありたい。

二人の先輩の名をあげたが、この両氏だけではないだろう。語られるべき先達は多い。OB名簿には、すでに300を越えるメンバーの名があるそうだ。
よく「私たちの中で生きている」ということをいうが、そのひとの記憶を持っているだけなら、それは記憶のままである、記録といっても良い。
しかしそのひとのことをわれわれが言葉で伝えはじめたとき、はじめて話し手と聞き手の中に生き生きと、彼らは個性をもって動き出すのだ。
そして彼らはいろいろな語り口で京芸ラグビーを語り、それ以外のことも教えてくれるだろう。
語られ続けることでこそ彼らは生き続けることができるのである。
だから、僕は話す。
そしてこのブログという便利なものを使い、硬軟とりまぜた話を通して京芸ラグビーというものを育んでいきたい。

なにやらしゃっちょこばった文になってしまったが、気楽にやろうと思う。みなさんのコメント、お待ちしています。