2010年12月28日火曜日

ウィスキーをもう一杯。

久々のOB戦であったことよ。
現役が強くなっていて驚くとともに、嬉しかった。
OB勝ったけどね。
追い出しコンパにも足を運び、ビールばっかりかぱかぱ飲んでいた。
自分なりに気をつけて飲んでいたつもりだったが、引退マネージャー・
ユーコさんの持っていたウイスキーを開けろなんつってひつこくからみ、
うざったOBを演じたりなんかしてもた。しっかり記憶を保ちつつそんな事を
してたもんだから、憶えているだけに、後で自己嫌悪に陥ってしまった。
何歳下にからんどるんだ。
ええかげん何年おれは酒を飲んでけつかるのか。成長しないままここまで
歳を重ねてしまった感に堪えない。
最近、たぶん死ぬまで自分のこういうところは治らないという気がしてきた。
恐らくこれからも後輩をしてうっとおしがらしめるおっさんであることなのだろう、
すまん。

しかしまあ、追い出されたプレーヤー及びマネージャーに告ぐ。
おいでませめくるめくOBワールド。

なんてここまで書いていたのが昼間で、今は夜。職場の忘年会から帰ってきて
再び書いているのであるが、全く酔わん。
人見知りの激しい自分は、こういった慣れない飲み会ではぜんぜん酔えない。
まともにお酌もしない。
冗談でなくひざを抱えてなるべく小さくなり、隣の人の話に耳を傾けるふりをして
時間が過ぎるのを待っている。
ま、楽しくないのだ。そして、それでいいと思っている。
しかし、自分の酔い方を周囲の雰囲気に任せてしまっている分、卑怯ではある。
学生気分が抜けきっていないゆえんであるが、あかんな三十路も半ばになって。 

なもんで、家のある茨木市に帰ってきてから、行き着けと言うほどでもないが、
よく行くバーで飲みなおした。
クールでカッコイイという言葉とは真逆の路線をひた走るバー「ブロンコ」。
同い年のマスターに枝豆を頼むと、100円ショップの冷凍枝豆を目の前で水に
さらし、ひやひやのまんま出してくれるというユルさがいけていると思うのだが。

子どもの頃、実家の町営住宅でご近所だったおばちゃんの働いていたスナック
と雰囲気が似ていて、ほっとする。
おつまみのお菓子をくれるので、ときたま遊びに行っていた。ヤニ臭く薄暗い
店の中で食べるアメやチョコレートは格別で、カウンターの中で笑うおばちゃんは
妙に厚化粧で猥雑でくたびれていた。
半ズボンの、長袖の手首は鼻水でピカピカだったくそ餓鬼の自分は、大きく
なったらこんな怖そうな場所には絶対来ないと思っていたが、今来とるな。
原風景にとらわれ続けている自分をまざまざと自覚する。でも気分は晴れるの
だった。

本当はこんないなたいことを書くつもりはなかったのだが、脱線した。以下次号。

2010年12月16日木曜日

おやすみママ

前回の鼻水に関する日記だが、めちゃめちゃ眠い中で書いた。
ほしたらえらい変になっとる。
え、普段とおんなじ? そうお?
でもまあなのであえて修正はしておらぬ、読みにくいかも知らんが、
ご了承いただきたく、よろしくお願いします。

2010年12月15日水曜日

Perm Y Deep 鼻水ケガレ落とし

もう年末だ。.
再び、お寺のご住職と腕相撲をかます日が近づいてきた。あれからもう一年、
今年も仏に顔向けできぬ日々を重ね、ふらりふらりと生きてしまった。

正月は 地獄の旅の  一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし

一休宗純

あれ?なんかちゃうな。まいい。

今回の記事は、きちゃない話でもお送りしよっかな、そうしよっかな。

ここ3・4年のことだが、風邪を引くき、全快する時に「おしるし」が出るようになった。
それが出ると、薄皮がぺろりとはがれるがごとく治り、それから翌年の冬まで
健康に過ごせるのである。
何かと問われればそのおしるしとは、「鼻水」である。
それも尋常なものではない。
まっ黄っきなのだ。
この記事の題を「Perm Y Deep」としたが、いわく、アクリルガッシュ12色セットの
中の一つ、パーマネントイエロー・ディープ そのままの色なのである。
厳密に言えばそれにさらにスカーレットを少量混ぜた、なんとも明度の高い色の
鼻水なんである。
ちょっとウミウシにこんな色の奴おるかもな、と思うほどに。

仏の顔に免じて、ビロウな話をお許し願いたい。

風邪治ったかなーと思いつつ鼻をかむと、鼻腔の奥、顔の骨の中、副鼻腔から
ズビズバすぽーん!!と、けっこうな勢いで出てくる。痛いほど鼻が通り、気分は爽快。
なんだと思ってティッシュをのぞけば、それだったった。

ズビズバすぽーん!!と出たそれを見て、自分はそのあまりの黄色さに思わず
「きいろ!」と声を上げてしまった。
それが職場だったので、こっぱずかしかったもんである。
マジで?と二回ほど見直してしまったのだが、人間の体っちゅうのはまあ不思議な
存在であることよと実感したのだったが、人には見せられたものではないので、
それがいかんともしがたい。

以来、かぜの終わりにはこの冗談なくらい黄色の鼻水を見ることになったのだ。
青っぱな、とかも言うが、それは実際白が勝った青白いものであって、ほんまに
青くはない。 しかしながら自分の場合は、字義を裏切らないド黄色なのである。
しかしその色は、粘膜を守り、多くの風邪菌から自分を守ってくれた証だ。
最近それがちょっと愛しい。
ティッシュに丸めてゴミ箱に捨てる前に、ありがとう、またあの世で会おう。と
挨拶を言って捨てるようになってきた。
まるでわが身に自分のケガレを一身に引き受け、戦い終えて戦場より帰ってきた
鼻水、なんてな妄想を考えつつ、この記事を書いている。
そういうこともあり、「鼻水ケガレ落とし」 というプロレス技のような名前を考えて
みたのだ。

鼻かんだ後、びっくりするような色に出会ったことはありますか?
ズビズバすぽーん!と。

2010年12月8日水曜日

いいタックル見せてもろた

早明戦を見た。

近年の学生の試合を見ていると、その体格のイカツさに目を見張る。
以前は、いかにも学生・食うもの食ってませんというような細こい選手が
ざらに見られたものだが、食事やトレーニング方法が確立してきたのか、
太もも・二の腕が、樹齢でいうと50年は行ってるな。という丸太っぷりを
呈している選手ばっかりである。
ジャージが「ピチジャー」になって久しいということもあろう。
が、それを差し引いても「太い」。
なんか飲んでるんだろうか、やっぱり。

早稲田・明治のキャプテンがともに№8なのだが、二人してどう見ても
ありゃプロップである。なのに足が異様に速い。
体型と速度がアンバランスなので変な感覚に襲われる。
早稲田のSOなど身長187センチだ。それこそバックローだろ、と
思ったり。ラグビーは日々変容しつつ、なお究めつくせぬものよな、とも。

学生の試合を観て楽しいのは、その「守るものなんかないぜ感」である。
うらやましきはその感覚は、現役でしか味わうことのできないものだ、
OBになると二度と味わえない。
特にタックルにそれが顕著に現われる。
今回の早明戦もそうだったが、頭から突き刺さるタックルの応酬で、
何度か
テレビの前で何度も「おー」とか「わー」とか言ってしまっていた。

ああいったタックルを繰り返されたら、そら攻め手もなくなる。納得の
試合結果、早稲田の勝ちであった。

タックルは、こわい。
しかしそれを克服し、果敢に守るからこその面白さだと自分は思う。
であるので自分としては、オフェンスよりもディフェンスの方が好きである。
いい守りで勝った試合のほうが実感が強いのは、自分が被虐の徒、
所謂ところのマゾッホだからかしらん。

別にどつかれて嬉しいわけではないのだが。
背水の陣が好きなのだ、とカッコつけて言っておこう。

2010年11月15日月曜日

頭脳戦快楽

先日、大阪の本町にある「ブルーモンク」というバーで、鈴木常吉氏のライブを楽しんだ。
「深夜食堂」と言うドラマの挿入歌をうたう人だが、よかった。
客は自分を入れて15人だった。もっとも、それで店内は一杯だったのだが。
現代フォークと言ったらいいのかどうか知らないが、こういうジャンルも楽しい。
亡くなってしまったが、 高田渡といい、ギターひきがたりで歌う人からにじみ出るゆる~い
あの感じは、いかしてるなあ、 といつも思う。また行こう。

美術部の顧問のほか、演劇部の副顧問なんてのもしている。ひょんなことで、その演劇の
脚本を書くことになり、はっきりいって全く何もわからないが、書いている。
1970年代の飲み屋台での、60年代安保の残党の殺し合いという救いの無い一幕になる予定。
意識して高校生向きではない 話にしている。やはりゆがんどるな俺は。
そんな中、引率である劇場に行くと、こんな写真が掛けてあった。






どう見てもラグビー部OBの出で立ちである。かなり自然なので、おっと思ってしまった。
20年近く前に演じられた劇だそうだが、どんなものだったのだろうか。
ちなみに一番左の明らかにプロップの人は、渡辺徹である。う~ん、リアルだ。

閑話休題。
先日、後輩Fjino君からのコメントがあって思い出すことがあったが、OB戦の時、やりにくい
現役、というキャラクターがある。そのトップがまさに彼であった。
策士、と言おうか。
断っておくに、評価のつもりで書いている。
経験者と言うこともあろうが、彼が首脳陣の時のOB戦は、毎回かなり緊張した。
普通にやると負けるからだ。
どういうことかというと、頭を使わんければいけなかったのである。

自分は、頭を使って物事を行うことが苦手だ。戦国時代でいうと、自分は陣頭に立ち、
いの一番に敵陣に突っ込み、真っ先に殺されるタイプである。それなのに向こうの出方を
予測してOBチームの策を練るなんて、戸惑うっちゅうか、できん。
しかも戦局によって方針を変えていくのだから、毎回一杯いっぱい だった。

ここでタックルに行かねばならないが、いけば絶対にボールを回される。でもいかな
しゃあない、という状況を作ってくれやがるのだ。この感じ、分かっていただけると思う。
しかしそのおかげで、それまで知らなかったラグビーの領域を知ることができ、非常に
ためになった記憶がある。
自分の脳髄の少ない要領を精一杯活性化し、シナプスを痙攣させ、OBになってやっと
初めて「頭を使ってラグビーをした」。

そういった意味で、Fjino君には感謝の念を持つ自分である。

そして、そういうこともあり、彼を味方に置いて試合をすると非常に心強い。
とはいうものの、彼だけでなく、実は京芸のSHはそういった頭脳派プレーヤーが多い
ように思う。
自分の知っている限りでも、タクミさん、 ケンタさん、フジイ君、ユウキ君、そしてフジノ君、あ、
言うてもた。
適材適所なのかなとも思うが、うらやましいなあ。だって、恐らく自分にはSHはできないと
思うからだ。

2010年11月5日金曜日

小景異情

衣類を片付けている途中、体動かす用衣類の中からぽろりと。
クラシックスタイル・ヘッキャである。
もうこのタイプの製品は製造してないんじゃなかろうか。
 次にあるOB戦では、これを着けて出てみようかななどと思っている。


先日、仕事帰りの電車に乗ると、車両に自分ひとりであった。
なんだか気分が大きくなり、荷物を座席に投げ出し、斜めに座って
足を組み、放屁などしてから本を読んだ。
乗り換えの駅まで王侯貴族。

もちろん駅に着くまでに屁の痕跡は雲散霧消、何食わぬ顔で
降りたのである。アット・ザ・十三。

そして小用をもよおしたのではばかりに入ると、ちょっと聞いてくださいよ。
一人の若者が小便をしていたのだが、大きなスポーツバックを左肩に掛け、
右手で放尿を保持しつつ、左手で携帯電話メールをしてやがったのである。
もちろん彼の顔は左に向けられ、携帯の画面を見つめているのだ。
便器からは完全に視線を外しとるわけだこれが。

自分は一瞬、不覚にもあっけに取られ動きが止まったもんだ。

だって自分だったらば、おしっこしようと思ったらまず両手で支え、
ちんちんの先を凝視し、まなじりをあげてふっとばかりに殺気を込めた
上でなかったら、用などとても足されたものではないのである。
さなきだに顔なんぞそむけようものなら、便器から水流外れ、自分の
足やらトイレの床やらをびちゃびちゃにすることは必定、一気に迷惑な
社会不適合者になりさがってしまうことうけ合いだ。

なのにこの若造ときたら、小粋なグローバル・スタイルで片手おしっこを
かましてけつかる。なんたる八面六臂ぶり、現代人、ながら族のはしり。
かっ、阿修羅が。
そのこわっぱ、メールと小便を同時に終え、携帯電話を、ぱこん、と
二つ折りにし、ちょっとあごを上げつつW.Cを出行きくさったのだ。
なんだか劣等感に襲われた自分は、少し背を曲げ、搾り出すように用を足し、
外に出た。
風がだいぶと寒く感じた。

しかしそういえば、彼の若者は手を洗わずに出て行ったのではなかったか。
はは、グローバルも地に堕ちたものだ、最後の最後で過ちを犯しよった。
自分は洗ったぞ。
気化熱でひんやりするまだ濡れた手を見て、自分は明日もがんばって
生きて行こうと心に誓った。


自分の目にした、霜月朔日の風景の活写である。

2010年10月28日木曜日

思ひ出 オブ 泰造杯

前回書いたとおり、日頃口ではKRFCラブを吹聴しときながら、泰造杯よりもわれの個展を
選んどるOB、私がハマモトである。

参加できない腹いせに、参加した気になって泰造杯の思い出などつづってみようと。
毎年書いとるかも知らんが、毎回忘れてしもとるので、こちらとしてはいつも新鮮に思われ
よい按配だ。

自分は楕円球初心者だったので、入部してしばらく、いやさかなり長い間わけもわからんまま
走っていた。ルールなんぞうろ憶えもいいとこで、オフサイドもよくわかってなかった。
 スペースへのパス?ツメ?ドリフト?オーバー・ザ・トップ?スタロ-ンか?何でしたっけそれ。
ただボールを持ってまっすぐ走ることしか頭になかった。前さえ見ていなかったかもしれない。
ボールを思いっきり抱えて地面を見ながら走り、ヤンに引っかかってコケる、といった。

一度、だれかが転んでから「逆走」を始めたのを見たことがあるが、その気持ちはよー分かる。
モールやラックでもみくちゃになると、方向が分からなくなるのである。
また、自分の現在位置も把握できないので、自分はかつて、22メートルラインにトライした経験
を持つ。いばらんでもよいが。
ポイントの中で手を伸ばして「トラーイ!」とほたえたが、自分がボールを置いたのはゴールライン
のはるか22メートル手前であって、そこにいた自分以外全員が怪訝な顔をしていたのが忘れ
られない。
笛も鳴っとらんのに全員の動きが凍り付いていた。審判も。
自分は、なぜかその場で「うぎゃあっ」と叫んだ。

ようするに、いっぱいいっぱいでラグビーをやっとった。

一生懸命なのは分かるが、必死さに余裕がない。ので、逆効果必至なのである。


そういった状態の自分が、泰造杯でOBに人数調整で混ぜていただき思ったことには。
「すげーラク」ということだった。
皆さん分かっておられるので動きに無駄が少なく、よく分からないままでもその流れに従って
いると、自然に自分の運動量も抑えられ、疲れが少ない。
なおかつ立場的にも楽なので、試合中に周囲を見回すことが出る。これは新鮮だった。
なるほど、今こういう動きで攻めてるのね、だからピンチなのね、と言う情報がするするっと
頭に入ってくる。あ、じゃ、おれこうしよ。と判断を行う余裕ができたのだ。

いくら身体を鍛えたところで、がむしゃらにやるだけなら消耗が激しいだけで、かえって
チームに迷惑さえかけかねない。
どんなによく切れる刀も、使う者次第では意味なく振り回して自分の足を切るか、地面を
たたいて刃こぼれさせるだけだ。
その意味が理解できると、毎年の泰造杯が楽しみになっていった。
だから今回参加せぬと決めた自分の苦しみいかばかりか、お察しいただきたい。

そんなことを考えつつ、夜中外を走っていた。
しかし、いくら一人体を動かそうにも、ラグビーは30人でやるものなのだ。寂しきこと、
オホーツク海 の流氷の如し。
自分は、「うぎゃあっ」と叫びたくなった。

たれか、泰造杯の日の画像入りレポートしてくれんやろか。

2010年10月18日月曜日

告知と慟哭

個展をいたします。
自分の家の近所にあるギャラリーです、お近くの方も遠方の方も、ぜひおいでください。
立体、平面両方ともにおかせていただきます。











濵本 裕介 展
10月27日(水)~11月1日(月) 11:00~18:00(最終日16:00まで)

ぎゃらりい壺
大阪府茨木市元町5-8
tel/fax 072-622-1712

自分は、10月31日(日)のみ、在廊いたします。


なにせハマモトの立体作品を見ることができるのは世界でここだけ!
ギャラリー壺を置いて他にはありません!
キャッチコピーはこれで。

ならぶ陶オブジェは一年かかって20個にも満たないわけで、その分気合は込めてない。
のほほーんと脱力状態で作っている。いや、けっしておざなりにしているわけではない。
ふと頭に浮かんできたり、耳の穴あたりからだらだらと流れ出てくるものを粘土で形に
してきたものなので、申し訳ないほど気楽に楽しく作ってきているのである。
しかし、楽しいがゆえに時間を忘れ、入れ込んでしまうのが常であり、気合はこめてないが、
集中力はこもっているのだろう、と思う。何でこんなん作ってしまったのか、と後で思ったり
するものも含め。
もともと息抜きのつもりでやりだしたのが、ひょんなことで個展に出すようになったのである。

とにかく急ぎも焦りもせずほてほて作るので、大体一年にその程度の数。

ところで、期間を見ていただければお分かりのように、芸祭の時期と思いっきりかぶっとる。
したがって、今回、自分は泰造杯に出られない。いや、出ないように決めた。
この間自分は普通に仕事があり、土曜も休めない。会場にいられるのは31の日曜以外、
無いのである。苦渋の決断と言うことで、ひらにご容赦いただきたい。

泰造杯にはもっと人数を集めたいなとか、OBの互いのつながりをとか現役との関係
うんぬんしたり顔で言っとったくせに、はっ、自分の事となればこうである。
あまつさえ前回の記事で、われが口で自分なりのやり方で京芸ラグビー部と付き合って
みようとのたまっておきながら、これじゃ付き合いもできておらんではないか、餓鬼が。

絶対矛盾の自己同一、反省・慟哭・自責の血!!
懊悩している個展、芸祭直前の日々なわけで。
みなさんごめんなさい。

たかが大学の学園祭なんだが、自分にとっては大事なイベントであるし、ショックなんである。
おろろん。泣く。
でも観にきてください

2010年10月14日木曜日

独白の告白なのだ

先日、といってもかなり前になってしまったが、OB事務局で集まり、飯を食いつつ
意見交換会のようなことをした。
桂近くのファミリーレストランにて。自分はカツカレーと生中二杯をやっつけた。

今まで何度も書いてきたし、OBの集まりでは毎回新鮮さを持って、必ず感じること。
「我々はなんたらこのラグビー部をラブなのか。」
というものである。そう感じるのは自分だけかなこりゃ。

とにかく愛憎こもごも、いろんな思いもありつつ好きなのだなあと。

そんなことを感じながら、どれほどしゃべったであろうか。
若手と呼ぶにはそろそろ、ちっとばかりトウの立ってきた我々の世代だが、それぞれ
の思いを披露しあった。
OB会の今後のこと、心配事、お互いの近況など・・・。

思うにわれわれは、京芸ラグビーという共通のベクトルを持ってこれに参加している。
互いににそれぞれの価値基準、優先順位を抱きつつ。
そして、考える所は多く、違いも大きいはずだ。特にKRFCに対する思い入れの深きに
つれていやましであろう。
その中で生じる意見の食い違いなどはむしろ、自分は建設的であると思う。
みなが額を寄せ合い、あーじゃこーじゃ言っているその状態そのものが大事なのだ。
結論や解答はむしろ二の次でもよく、「話し合う」こと自体がとにかく思いを確かめ合う
結果を生むと信じる。
明快化され、統一された認識を持つのでなく、とにかく第三者同士受け入れ合うため
ということが本来、話し合いというものの目的であり、本質なのではないか。
あまつさえ京芸ラグビーという命題をお互いに持つ自分達の場合、、分かり合えない
はずがあろうことか。

個人的世代的な認識のズレも、それぞれの解釈も、話し合うということでいくらかでも
歩み寄ることができたなら、それだけで十分なはずだと考える。
感情的になるのはかまわない。しかし物理的な量や個人の自尊心、虚栄心なんかを
持ち出してきた瞬間、その場はもうおじゃんになってしまう。
話し合いは、一挙に戦争へと転がっていってしまうのだ。国家間のドンパチとは、その
大規模なものであろう。

そういった意味で、この夜の会合は非常に意義あるものだった。

同時にこのような集いが増えるなら、学年を超えてOBのつながりが強くなっていく
んだろうななんて考えていた。
自分達の下の世代も、こんな風に思ったりするのだろうかとふと頭によぎるものがあった。
それは、自分が中堅どころに差し掛かったきた証拠なのかもしれない。なんか若手と話が
したくなってきたのだった。

自分なりのやり方で付き合っていけばよいのだし、自分なりの意見を持っておくのもよいのだ。
そうすると、以前「自分はいつまで現役のコンパに顔を出してよいものか」なんつって悩んだり
していたが。
「いつまでも、いやさ、死ぬまで出ていていい」
のである。
これ、KRFCとの、自分なりの付き合い方ね。
ああ、免罪符を手にしてしまった。厚顔無恥、といってもよいのかもな。

ま、ややこしくない程度に、はい。





 

2010年9月10日金曜日

おウイスキー・苦悩のセンテンス

精神的にひじょーにつらくてしんどいとき、こんな早口言葉を思いつき。
「はは」と自分を慰めていた。
言葉によるマスターベーションなんつったら、さらにむなしいぞ。
「この釘は引き抜きにくい釘。」より

このくにはいきぬきにくいくに。
このくにはいきぬきにくいくに。

和歌の如くに掛詞なんか使ってみたりして。
この国は生き抜きにくい国。
この国は息抜きにくい国。
二重の意味である。

そう、真面目にしんどいときでさえ、こんな下らないことを考えてしまう
性分なのであることよなあ、自分は。



閑話休題。
去年か一昨年辺りから、ウィスキーが好きになってしまった。
それまでは自分の中でウィスキーっつったら「悪酔いのスイッチ」
でしかなかったのに、180度嗜好が変わってしまったのである、なぜに?

そら、やはりおいしいヤツを飲んだからだろう。
逆に言えば、30過ぎるまで飲んだことのあるものなど、コンビニで
販売している安ウィスキーばっかりで、かつビールをあおるピッチで
杯を重ねてしまう自分の悪癖もあり、良いイメージを持てなかったのだ。

不思議なもので一度美味いと思うと、飲み方にも気をつけるようになり、
シフトダウンしてちびちび飲めるようにもなってきた。時々失敗をしちまうが。
今のところ、シングルモルトが好きだが、おいしければ何でもいい。
自分の場合、すっと飲めるやつがよろしい。
確かにおいしいものは一口目が甘い。これは驚きであった。
ただ同時に、しかしながら、おいしさと熟成年数と値段は三つ巴で比例して
いるのである。
自分の財布では手が出ないので、大阪梅田の阪急で「量り売り」してくれる
店を見つけ、ちびっとづつ買っているのである。
せこい話だが、それでもちゃんとしたお酒が味わえる幸福は、なかなか
甘美なものなのだ。

自分も三十路の半ばにさしかかり、そういったものに嗜好を求めることで
いっぱしの「通」たらんとしているのかというと、さにあらず。
おいしいお酒をあおって、楽しく酔いどれおやじと化したいのである。
できれば酔った勢いでクダなんか巻いてみたりしたい。
そこはほら、ぼく、小心もんですから。
クダを巻くだけ巻いて、翌日うっすらとした二日酔いの中、
「たはは、やっちまった。」
なんつって自己嫌悪に陥るのも悪くない人生だと思うのである。





2010年8月26日木曜日

マシンボイスか生声か

帰宅ラッシュ前の阪急茨木市駅改札脇に、若い駅員さんが立ち、
しゃきっと「ありがとうございますっ!」の声をかけている。

あまり速いのでこの一言が1秒もかからない。
それもナイスなタイミング、定期を改札機に入れた瞬間、
「ガシャン」の「ガ」 と同時にびしっと言ってくれる。少し驚いた。
恐らくは上司に言われてやらされているのだろうが、それにしても
機械のような冷徹さ、正確さなのである。
まるで改札行為がスイッチみたいに。

それならばと、定期を入れそうで入れない、を彼の目の前でくり返し、
「あっありありが・あり・ありありあっあっあありがありあり」
なんつってアリの行列かのような「駅員さんジョッキー」 をやって
みたくなったりする。 せんけれども。

実際思ったのは、彼の機械的な挨拶に腹を立てたのではなく、
駅員をわざわざ立たせんでも、そうだったらほんまに 機械に
し、「アリガトウゴザイマシタッ 」と言わせたらよいのに、てなことである。
よもや機械で人様に挨拶とは何ごとかっ!と怒る人もまあいるまい。
でもやはり、いくら機械的であっても、血の通った人間の 方がいい、
ということなら、それはもうほとんど本能的といってよい感覚なの
ではなかろうか。
ま、機械化の予算の問題なんだろうけど。
ただ、ロボットに言われるよりヒトの方が・・・、だろう。

それは、イセエビの一種が長距離の移動の際、普段は単独行動
なのに、いつの間にか数匹が集まって列を作り、海底を歩いて行く
習性を持つ。というレベルに近いように思う。
つまり同種という他者の存在を感じていたいのだ。
一人(一尾)で行き先の決まらぬ旅するのはこの海はあまりに茫漠に
過ぎ、きっと「寂しい」のだ。エビとはいえ、きっと人肌恋しくなる
のだろう(甲殻類で冷血動物だけども )。

断っておくが、一人旅、という言葉があるが、これは現実逃避の
一方法であって、孤独な状態ではない。もちろん、誰かのいる
帰るべき場所があっての話だ。
真の孤独が行き着く先は緩やかな死か自殺、即身成仏くらいな
ものである。

だとするなら、まあほとほと孤独には生きていけない我々万物の霊長
というわけだ。
そうしてみると、感情がこもらないながら、若き駅員さんに少し
感謝の念がぽっとわいた。
同族の声を聞かせてくれてありがとう、他者の存在を知らしめてくれて
サンキュー、と。
おれ、イセエビ?

2010年8月22日日曜日

こういうときは素直に感謝すべきと思う。2

おおむね、とくに自慢のできない人生を送ってきていると思う。
自分自身の人間的な器、というものも、ちゃんちゃら小っさい
ということも分かった。しかし、数少なく胸をはれることの一つで、
「よい隣人に恵まれている。」
ということがあり、これはかなり自慢ができると思う。
とりわけそれら隣人の中には、「先輩」の比率が高い。

ラグビーに限らず、いろんな先輩によー世話していただいた。
ほらもう恐縮なほどに。
今まで冗談ではなく、ほとんど先輩のつてそれのみでメシを
食ってくることができた。思えば、お金ないなあ、どうしよう
かなあと思っているまさにその時に、ナイスなタイミングで
働き口を紹介してもらってきたのだ。
だから働いた職種の割りに、書いた履歴書の枚数はさほどでもない。

前回からの続きだが、東京で一緒に飲んだドマさんにも、一度
バイトをいただいた。そのおかげで何日か生活を潤すことができた。
そういった生活の積み重ねがあり、今の自分がある。
ドマさんを含め、今まで稼ぎ口をもたらしてくだすった先輩方全てが
自分にとっては恩人なんである。

ある方はこういう意味のことを言われた。
「京芸つながりの後輩に仕事を回していくことで、それが彼らを
助けることになるし、そのつながりが続くことで近い所に仕事が
転がっているようになる。」
こんな有難いことはなく、実際自分はその「つながり」によって助けられた。

また前置きが長くなってしまった。

ビールをあおりつつ、ドマさんと色々話した。
造形屋という仕事の面白さ、それにまつわる興味深い人たちのこと。
学生時代のこと。また、今現在の京芸のこと。
ひとつ気にしておられた。
上のOBたちのことは、もう若い学生達には記憶されていないのではないかと。
確かにそういう面はあるかもしれないが、自分はこれを否定した。
「お尻芸」をはじめとして、数々あるエピソードを、自分は下の回生に
ことあるごとに話す機会があった。
「こんな先輩がいはってね。」てな具合に。
だから何となくでもこんな人がいた、というイメージは伝わっている
ように感じるがしかし、あくまでそれは情報のみであって。
鯨の大きさをいくら言葉で表しても実体のそれを見るにしからざるように、
実感が伴わない。
そしてそれはある種の不幸といっていいのだと思う。

OBの昔話というのは、現役にとっては古臭く、時として苦痛である。
ただ、あえて自分は言いたいのだが、
「昔はよかった。」
なぜなら、面白い記憶満載だからである。
個人的なものでなく、学生多数、ほとんど過半数の生徒を爆笑せしめる。
そんな生々しいほどに面白い人がごろごろいた。言い過ぎか?

ただ、かつてそういった状況を楽しめたからこそそう話すのだし、
楽しめたからこそ今でも京芸に顔を出すOBがいるのではなかろうか。
あるいは、行きたいなあ、と思われるのでは。
実際にそういったOBがいるということが、「昔はよかった」の裏づけに
なっている。

分かりやすい例で芸祭。
以前は「美女コン」というイベントがあった。
練りに練り、仕込みに仕込んだ女装集団が舞台で乱舞しとった。
自分も出たが、思い出したくない。
それ以外の人たちのありようというのが、プロ意識を感じさせるほどに
みなを笑わしたる!という気概に満ちていて、イナカモンの自分は目から
うろこが落ちるほど感動した。
なおかつ、四年に一度、「グランドチャンピオン」があった。
卒業したOBが再びつどい、芸を披露するのである。そう、さっき「不幸」
と書いたが、それを見ることができていない後輩達が不幸なのである。

その盛り上がりはちょっとすごかったぞ。

自分が目の当たりにした「グラチャン」は二度。記憶している限りで言うと

○ヤスイさんがFRPの岩をかつで登場、スパンコールのワンピースで「マカレナ」
を踊っておられた。

○エグチさんが同じくスパンコールのワンピースで「京橋グランシャトー」の
歌を熱唱、その後泥酔。

○「OH!マイキー」「狂わせたいの」などの映像作品を制作のイシバシさんが
前代未聞の「映像芸」で参加。

○同級生シミズ君がジグソーで舞台にビュイーンと大穴をうがち登場、びびる。

○ナカノ君とドマさんのお尻で箸割り対決、ボールペンまで割り、ドマさん出血。

○ナカノ君、フジイ君、ヨコタ君による「日本のお箸は二本でお箸」アジテーション。

○ノハラ君、留学生デイヴィッド君を巻き込んでの恋愛寸劇。

だから、これらを見ることのできた自分はハッピーやと思うし、面白かったのだ。
どないや、見たこと無い後輩達、見たいとは思わないかい?
自分はもう一度見たい。
いや、見るべきなのである。
だから自分は、ドマさんOB戦、およびコンパへの復活をお願いした。
そして後輩達には、上に書いたイベントの復活をお願いしたい。
もちっとオープンな芸祭を標ぼうしてほしいのだ。

絶対に楽しくなる。重ねて言う。
「昔はよかった」
今は昔、と忘れるにはあまりに忍びない。古きをたずね、と言う言葉もある。

よかった昔をもう一度。
とりあえず、松崎しげるのあの歌に乗って、ドマさんのお尻芸から。
恐らく自分は泣くと思う。

2010年8月14日土曜日

こういうときは素直に感謝すべきと思う。

前回のアイドルがどったらこったら言っていた前置きの続きを書こうとしていたが、
新しいネタがぽこんと出てきたのでそちらにシフトする。

個展をする間、二泊三日で東京に滞在した。
最初、新橋のネットカフェで一晩過ごすと死にそうに疲れたので、二日目は上野の
カプセルに泊まった。何回か泊まっている所なので、やっと寝れた。
その二日目の晩、先輩であるドマさんと飲んだ。
学年で言うと自分より六つ上のキャプテンで、フランカー。自分と同じ柔道経験者
のOBなのである。

実は自分の「ハマーン」というニックネームは、このドマさん、「ドマーン」からいただいた
ものなのである。
何となく雰囲気が似ているから、という理由で、自分の入部二日目に、ヒッチさんに
つけてもらったのだ。そのときは偶然にも下宿が同じで、お互いホクセイ寮に住んでいた。
(何度か書いたのだが、このホクセイ寮は、そのころはスサマジイ面々がいたのだなと
今にして思う。)
幾度かお部屋に遊びに行かせていただいたことがあるが、お部屋に入ると、バイクが
一台、どんと置かれていた。
五畳半の部屋の真っ只中に、である。
畳が全部引っぺがしてあり、さながらメンテナンス工場のようであった。家主は、本当の
意味で「起きて半畳寝て一畳」状態。あの下宿のつくりでよく床が抜けなかったものだ。
一回生の自分にとっては、もう恐ろしいほどのインパクトの強さ だった。
加えて「松崎しげるの曲に乗って、お尻でお箸を割る」という芸もお持ちであり、ちょっと
他の追随をゆるさぬパワーの持ち主なのだ。
ちなみに、松崎しげるの曲は「愛のメモリー」である。

脱線するが、かつて芸祭で美女コンテストがあったころ、四年に一回「グランドチャン
ピオン大会 」というものもあった。
そこで歴代の出場者が芸を披露するのだが、ドマさんが出場された折、今でも忘れない。
舞台と観客一体になったすごい盛り上がりの中、ドマさんは上記の芸で 、なんとボール
ペンを真っ二つに折り、その破片でお尻から流血、というとんでもないことをやってのけ
られたのだ。対戦相手のナカノ君も同じ持ち芸で勝負していたのを記憶する。
あれは本当に面白かった。

というわけで、自分にとってはドマさんは「ハレの人」であり、そんな方とお酒を飲むことが
楽しくないわけは無い。実際楽しく飲んだ。
たくさん飲むと酩酊してしまう自分が、ずっと同じ調子でビールを楽しめた。
ジョッキを何杯おかわりしたかも忘れてしまった。

そして、どんな話をしたか、はまた長くなるので、次回に。

ドマさん、差し支えあればお知らせください。たまらん楽しかったので思いっきりネタにさせて
いただいております。

2010年8月2日月曜日

前ふりが長すぎて本題になってしまった例

ときにみなさん、AKB48ってなあ、どう読むのかご存知ですか?
「あっちもこっちもバッキンガム宮殿48棟」
「塩梅これでいいのだバカボン48歳」
「アンチKKK団暴露48ページ」
斯様におちゃらけたイメージしかわいてこない身供の大脳新皮質ではある。
特に「48」など、この集団の存在を知ったときからずーっと「エーケービーよんじゅうはち」
と読んでいた。あるいは「しじゅうはち」。
横文字読みであったとは、今の今まで知らなんだ。
だって「G-メン‘75」(往年の名ドラマ・がきんちょの自分はそのかっこよさにどっぷりはまっていた)
は、ちゃんと「ジーメンななじゅうご」って言ってなかったか?
教職なんてやってるので若い人間がまわりに多いのだが、そのことでえらい笑われた。ふん。

そういったアイドル集団(て言うのか?)には全く興味がわかないので、名も顔も憶えられん。
増えたり減ったりしよるようだし、おのこの集団でくねくね踊るエグザイルっつーのも増殖したよし。
重ねてみな同じような格好なのでなおさら。
外見的にキャラ立ちしといてもらわんと、記憶できないのだ。メンバーにマスクマンがいるとか、
敵か味方かいまだ謎、みたいなのがいるとか。
自分の知識としては、国生さゆりがおニャン子クラブのメンバーだった位のことしか知らない。
何にしたって現役マネージャーさんたちの名前さえおぼつかないのだから、何をかいわんや、
である。ごめんなさい。
学生に聞くには、なんでも48(よんじゅうはち)の人たちは総勢200人近くおり、プロ野球と
同じように1軍を狙ってしのぎを削っているのだとか。
そうまでしてなりたいアイドル=偶像って何なんだと思うが、若い身空でくじけぬよう、体に気を
つけがんばれよ。

(これを見る方で48の人たちのファン、親戚、あるいは所属メンバーよ、という人がおられたら、
どうぞあしからず。誹謗中傷の気などこれ無く、あくまでハマモトのたわごととしてお受け取りを。)

本題の前ふりとして書き始めたら、 止まらなくなってしまった。ほんまにたわごとでありました。

2010年7月25日日曜日

告知

相変わらずこの場を私物化している引け目を感じつつ、告知です。

東京・銀座にて個展いたします。



 濱本 裕介展
8月2日(月)~8月7日(土)
午前11:00~午後7:00(最終日4:00まで)

中和ギャラリー
〒104-0061
東京都中央区銀座6-4-8曽根ビル3F
tel/fax 03-3575-7620
http://www.chu-wa.com

8月5・6・7日、濱本は現地におります。(最終日の7日は午後2:30まで )
お近くの方はぜひおいでください。
遠くの方もぜひおいでください。

2010年7月23日金曜日

フリーキーラヴ・トゥー・ザ・楕円球

今まで、ラグビーのラの字も出てこない生活をしていた時期が多々あった。  そうなると、鬱屈した。
 大分といらいらする。  
満たされぬラグビーへの思いが高まり、どんな場合であれ、そんなんが高まりすぎると、人は
変になる。  その噴出した形が自分の場合はこうなった。







ちょっと前だが、仕事の合間に油性のマッキーで無心に描き倒してしまった。
何でこうしようと思うに至ったのかも思い出せない。
気持ちのぶつけ方が根本的にまと外れをかましてもうとるなこりゃ。
しかしこの「まと外れ」というのが自分の今までの人生でよーく絡んでくる。言い換えるとまと外れ、
という言葉がハマモトを理解するうえでのキーワードとなるのではないかいなとも思うのである。
いや、理解せんでもいいのだけれど。

まと外れの~人生なの~なんつって石川さゆり調に。

閑話休題。
しかし写真は、とりあえず自分の情念が形になったものとして、改めてなるほどな~なんつって
感心してしまっている。
これをするだけのエネルギーがあるなら、もっと他に表現なりなんなり出来たはずだと思う
のであるが。
ままならんもんだ。

2010年7月22日木曜日

雨の日の試合は耳の中までじゃりじゃり

インゴールにボールを持っていき、もうトライ確実!という状況でなぜか得点できないという
不思議が 発生することがある。

かつて自分が目の当たりにしたそれは、二つ。
○インゴールノックオン(映像)。
○余裕の独走で走りこみながら、そのままデッドボールラインを走り抜けてしまった。

後者の場合は、高校経験者でありながらデッドボールラインというものの存在をそれまで知らなんだ
 という、とんでもないつわものがやってのけたすさまじいとも言えるミスであり、後で試合中に
「あのさあ、デッドボールラインってなに?」つって聞かれた日にゃあ、言葉を失った記憶がある。
まじで?
と。

ほとんど漫画な状態なわけだが、今日(前の前の日曜日)、またしてもその漫画的状況に立ち
会う ことが出来たのである。
雨の降りしきるOB戦、重馬場であった。
前半の頭、現役サイドゴール前に攻め込んだOBチームのモール、跡1メートルの地点。
自分はセンターで出ていたがモールに入って押していた。
おっ、いい感じ!よっしゃあ、プッシュプッシュ!ああ!ライン入ったんちゃう?

ん?

どこまで行くの?何?あれ?おお?もう押さんでええよ、トライトライ、ストップストップ!
現役ディフェンスを粉砕してインゴールになだれ込んだOBモール、そのままなだれのようにデッド
ボールラインを越え、ボールはデッドになりにけり。
ボールを持ってむっくり起き上がったのはヤスイさんであった。
しかしモールに入っていた大半のOBがデッドボールラインを越えた事にお気づきでな い様子。
あれ~?
「雨でラインが消えとって分かれへんかってん。」
とはヤスイさんの言。
たしかに雨の中、草原のようなウチのグラウンドではラインなんてあって無きがごとくのもの、
びっくりしたが、こういうことは起こりうるのである。

しかし自分はこれを吉兆と見た。
なぜといって、モールにこだわり、デッドボールラインを越えてまで押し込もうという気持ちの充実、
そしてトライにならなかったとはいえ、さして気落ちしていないOBチーム。
お、今日はいけるなと思ったのだ。

この日OBは一人落ちの14人であり、しかも雨。相手の現役は助っ人入りの15人フル、かつ30分
ハーフ、ゲームキャプテンの自分ながら、実は「今日は負けるかな?」と、ちっとばかし弱気であった。
「こっち一人減らしますか?」
と現役からの申し出があり、受け入れてよかったのだが、しかし自分は、フジイさんなら絶対に
こう言わはるやろうと思い、
「いや、このままでいい。時間も30で。」
と言ってしまった。

しかしふたを開ければ重馬場をOBは駆け回ったのだ。ゴール前を意地で守り、ラインは一番外
まで回る。
ええタックルを繰り返す。
現役にトライをさせない。
繰り返すが、一人人数の少ないながらである。
久しぶりにラグビーをやった自分としては、めっさ楽しいゲームだった。
言ってみれば背水の陣をほんまに良く戦った。
そして自分は背水の陣、という状況が大好きなのである(人数が少ないとか、スタミナがないとか)。

骨惜しみしないプレーの連続、いい試合が出来ました。
現役の決定力のなさ、と言ってしまえばそれまでなのだが、それよりも、よく守りきったOBを評価
すべきだろうとひいき目でなく思ってしまう。

ところでここ最近、いくら体を鍛えていてもラグビーそのものから離れることで、気持ちが萎えて
いく自分というものを意識してしまった。
家で試合の放送も見ることなく、忙しさにかまけて日常に埋没していると、ずんどこ気持ちが
しおしおになっていき、
「あれ?おれ、ひょっとして引退?」
てな気分になってしまうのだ。
これ、いけませんね。
左右に頬をふりまわし、心の中に塩をまいた。魔がさすとはこのこと、なし崩しで心が弱り、名実
ともに楕円ワールドからおさらば、何てこともけっこうあるのだろう、いや、いかん!

とりあえずトライネーションズ観よ。

2010年7月3日土曜日

レッツ殺!

 な気分である。
たわけもの・くそったれ・人でなし・いけず・ガッデム・フールエディエット、
思いつく悪口アンド罵詈雑言を数々並べ、憎しみを吐き出しつつ酒をあおってかましたい。
こいつあ夢も希望もない。

こうした、不特定多数の人々の目に触れる形の書き物に、個人的なねたみそねみうらみつらみ、
その他ダークな感情を込めるのは感心できる話ではないのだが、ご容赦いただきたい。
だってラグビーできないんだもん。
加えてせっかく頼ってくれた後輩の期待を裏切るなんてしたくないじゃないか。
申し訳ない気分で満腔が満たされているのである。

先日、現役から試合の助っ人を依頼された。
日曜日、いけるかなと思ったら、その日は日曜出勤であった。
がー!
仕事で楽しみを削り、墨を口で咀嚼するような気分で働くなんて立派ね大人よね。というイメージを
われわれ日本人はいつから、なぜ持つに至ったのか、責任者と話がしたい。
ヤハヴェだって世界を作った七日目にきっちり休んどるじゃないかね。
神さんでさえ休みが必要なのに、その似姿として作られたわれわれが休んだらあかんなんて法が
あろうか、いやない。
しかも巷じゃあ週休二日がはびこり、イイ感じになっているというのに、週休ゼロなんて時が
あっていいはずがない、エイメン。

だから休まして。そしてラグビーさせてくれ。

こんなことを言い散らす自分は社会人不適合ダメ人間かつわがまま坊っちゃんなのだろうか。
みんながんばっとんねんと言われればそうなのだが、でも!
楽しいことと仕事がブッキングして仕事を選択せんければならない状態の自分に腹が立って
しまった。
早くこの境遇を抜け出し、わがペースにそって日々を暮らすハッピーをつかむのだ。
そう心に決めてしまった。いわんや制作活動をや。

たかが日曜出勤で絶望的な気持ちになって愚痴をはき連ねねばたまらん自分を、みなさん
笑っておくんなさい。
冒頭酒をあおってかましたいなんつってて、実はタイムリーに飲みながら書いているのであります、
エイメン。

マイナスな日記ですんませんした。

2010年6月29日火曜日

ジャパンつよなったね。

パシフィック・ネイションズ・カップをしていますね。
今回NZと豪州は参加していないのでちとさびしいが、日本代表、サモア代表に勝ちましたね。

トンガ代表にもきっちり勝っていた。すごい。ほんまにすごいと思う。
13年ぶりだかのサモアからの勝利だそうだが、実はその試合、自分も見ていた。
そのときの監督は平尾誠二氏で、代表ジャージも赤白ストライプの頃だった(個人的には
こちらの方が今でも好きなのだが)。
勝利が決まった瞬間、平尾監督が目を潤ませていたのを憶えている。
あの時は、サモア側が何人か出稼ぎの主力選手を欠いていたのを差し引いても、
戦術で勝っていた。その時のSO広瀬の正確なキックで前に進み、隙を突く。
あせったサモアのおかしたペナルティをしっかり得点にしての結果だった。
(その後広瀬は1999年トンガ戦で、連続9本のペナルティゴールを決め世界記録を作る。)

今回のサモア戦での勝利は?と見るならば、これはセットプレーでの安定感だったと思うのだ。
特にラインアウト。全体としてチームプレーが出来たんだというその結論だったのではないか。
ラグビーが団体競技であることの真骨頂に気づくことが出来た。

個々のパワーで言うなら、ポリネシア系の人々の身体能力は桁が外れて漫画じみてさえいる。
非常識だ。
なんせ体重100キロ近い力士体型が陸上選手並みのスピードで当たって来るのである。おなかが
出ているのに100メートル10秒台で走るのだ。なんじゃそらと思うでしょ普通。
生で選手を見たこともあるが、すごいボリューム、関西弁で言うなら、「ぶぁっつい。」
そんなのがごろごろしているチームに勝つその優位性とは何なのか、現監督ジョン・カーワン
はよくわかっているのだろうなあと思う。
さてでは、具体的な世界に対する日本の優位性というのは?考えていると楽しくなる。
まあとにかくそこにこだわったからこその勝利だったのであろう。
そう、ジャパンは強くなったのだ。
ラグビーを好きなものとして、うれしい。

来年の世界杯、俄然楽しみになってきた。

2010年6月19日土曜日

記憶と告知

先日大分時間が経ってしまったが、新入生歓迎OB戦に行き、新入生の顔をおがんで来た。
ま、当たりマエダのクロケット、ほんとにわっかい若い。「ぴちぴち」いう表現は
こういうこっちゃワレ!とまざまざ見せ付けられたような気がした。

一体自分にもこんな時があったのか?という思いに改めてかられたが、思い出せん。
しかし、まあ彼らもこれから甘かったり酸っぱかったり、ときに苦かったりという大学生活
を送るのである、ぼちぼちやったってくれ。
そしてそれがスイッチでかろうじて覚えている一回生の頃の記憶がフラッシュバックしてきた。
以下、恥をしのんで書く。

「人間失格」の冒頭そのままに、「恥の多い人生を送ってまいりました・・・。」といわんならん。
実家から京都の端っこ、大枝中山のホクセイ寮に引っ越して、人生初一人暮らしをはじめた。
家賃1万7千円、二回生の頭までテレビと電話も無く、廊下にある10円ピンク電話で用を足していた。
各部屋に冷暖房を大家さんがつけてくださったのは三回生になってからだった。基本的にその頃の
ホクセイ寮は違法建築だったこともあり(今はどうなんだろうか)、夏はうだるほどに暑く、日に
何回か行水した。
冬は冬でほんまに凍えた。部屋の中で白い息を吐き、コップの水が朝凍りつくのである。
毎冬に水道管が凍りついて水が止まり、風呂にも入れなくなるので往生した。寝るときはジーンズに
ジャンパーを着て布団に入っていた。
何せ上下お隣の部屋の明かりが壁や天井、畳の隙間から差し込んでくるのある。一見間接照明
っぽくもあったがびびった。一階部分は物置になっていたのだが、ある日そこから見上げると、
浴室の風呂桶がむき出しになっているのを発見し笑った。そら水道管も凍るわ。

ところで初めて一人暮らしをはじめた男が何をするかなんてタカが知れている。家族の目を
はばかることも無い。抑圧されていた部分が解放されるだけだ。
言わずもがなのリビドーである、わっかりやすいもんですよ。
一人暮らしはじめての買い物は、サークルKで買った牛乳と卵とエロ本だった。
そしてその帰り、自転車でこけた。その拍子にビニール袋の中の卵が割れ、エロ本が卵白と
卵黄でべちょべちょになり、泣きそうになった。
それでも持って帰って半ベソながら意地で読んだ。ページ同士がくっついてめくるたびに破れたが、
しけってへろへろのモデルさんたちのおっぱいが目に焼きつき、ああ、おれは大学生になったのだ
なあと実感できたものだ。
バカの二文字にしかならない生活だったが、楽しかったように記憶している。エロ本が?それも
そうだが大学一回生が。

その後は、初めての四芸前後からほとんど毎日先輩ヒッチさんにお酒を頂く日々であり、二日酔い
で学校に行き、練習で汗をかいて酔いを醒ますという繰りかえしで終始し、印象としてはあっという
間に二回生になってしまった。そして気がついたら卒業していた。
何を言いたかったのかといえば、うかうかしてるとモラトリアムとしての四年間なんて釈迦の手の上
で暴れていた孫悟空のごとく、おたおたと過ぎてしまうのだよと言いたかった。
しかしモラトリアムとしてでなく自分にとっての人間形成として、だったら最高の四年間だったことよと
今は思える。
後悔することもあるが概ね良しといえるのだ(身勝手甚だしくも)。

ではもう一度戻りたいかと問われるならどうか。答えは否、である。
なぜならあの時はそれなりにしんどかったし、楽しかったがもう二度とは繰り返したくないという
実感もあるので。
まあ若かったのだといえばそうなのか。しかし大人になったかというと全然そうでもないのだが。




あ、ところで東京でグループ展をします。






東京都中央区銀座3-3-12銀座ビルディング8F
ギャラリー枝香庵
6月22日(火)~29日(火)
11:00~19:00(日曜日・最終日は17:00まで)
http://echo-ann.jp

お近くの方はぜひどうぞ。

2010年6月14日月曜日

おセンチくん

自分は情緒的な人間だなあとつくづく思う。
理論でなく、感情で動いてしまう人間だと。

割り切るべきところをそうすることができず、齟齬を発生させてしまうのだ。 それも頻繁に。
何で自分はこうなんだよ!と切歯扼腕しつつ、それでもどっかでは「これでいいのだ」と思う節も
あるので、多分死ぬまでこの性格は治らないと考えてもいる。
さて、前回に引き続いての話なのだが、結論からいうと、センチメンタリズム上等を謳いたい。
オン・ザ・ウェイ・オブ・センチメンタルジャーニー・オブ・ハマーン である。

情緒は時に、いやしばしば矛盾をものともしない。
「なぜに?」と周りがいぶかしむ行動思考をうながしてしまうことはざらにある。
理論や科学から見れば明らかに不合理であることもやってのけてしまう。しかし逆に考える。
もし世界が本当に理路整然とした、熱力学第二法則・熱いものはいつか冷えていき、流れは
高きから低きへ向かう、てな世界だったなら、多分、おもんな~いものなんだろうなと。同時に
実際見回してみるに、人間の実生活は矛盾の泉、思考停止の連続、不合理の砂漠である。
「なんでやねん!」とか「んあ~」とか思わぬ日などあるだろか、 いや、ない。

要するに日々不条理だらけの毎日を過ごす我々にとって見れば、合理的、科学的であるという状態
というのはむしろ少なかろうと思うわけだ。
そして自分はそういう自らの抱える不合理さや矛盾にくるしむ人が好きだ。
無視する、ではなく向き合ってしまわざるを得ない人々。語弊を恐れぬ言い方をすると「ダメ人間」の
ことである。
自分がそうであるだけに、そういう人に親近感が覚えられ仕方ない。
でも、ダメさがわかる人って、誰かのダメさをも受け入れられると思うのだ。他人の弱さが分かって
あげられるのではと思う。だからいかんともしがたいダメさを抱える自分を肯定しちまってもいる。
こんな考え方だからいつまでたっても改善が見られぬ自分でもあるのだろうけんどもね。
ああまた話が支離滅裂になってきた。

えーっと、つまり今はいない誰かと同じ空間に存在した何かに、その誰かそのものを投影し、
感慨深く眺めいってしまったりすることはとてもいいことなんだ!てことで。
一つ加えるなら、そういう人がダメ人間だと言っているわけではない決して。

これはもうみなさま「なに言ってんの?」と思われている次第でしょう。自分でも着地点が見えなく
なってきたのが分かる。しかし。
クールに割り切れないものの中でおぼれたおし、泣いたり笑ったりあくことなく、へロヘロんなって
生きとる。感情移入しまくって軸のありかも定まらぬ、そういう自分であることよなあと思ったのだ。
そんな中、件の石膏像が自分の近くにやってきた。何をかいわんや、愛でるのみである。
そして、今年は大変申し訳ないながら、自分は谷口青児杯に参加ができない。
ひじょーに残念である!だから感情が変な方に言ってしまうのもお許し願いたい。すいません!
結局言い訳になってしまったが、うう、無念。

2010年5月31日月曜日

えにしにゆれる日々のうち

6月に恒例の谷口青児杯が予定されている。
それに関して、ちょっとした出来事があったので。

5月頭に石膏像を引き取らないかという話が舞い込んできた。
一応教員をしているので、美術室におきたいと思い、また個人的な好みとして
石膏像が好きなので、もらうことにした。
それらがたくさん並んでいる美術室って、それらしくて良いし。

石膏像というのは結構旅をする。高価でなこともあり、ぽんぽん捨てられることは
少ないのではないか。
特に古いものになると、像を起こす型が新しいこともあり、ピリッとシャープなラインが生きていて、
多少汚れていても十分美しい。
自分が美術の師に初めて教わったのが石膏像の木炭デッサンでもあったので、親しみ深い。
なものでこんな話があるとついついもらってしまうのである。

そんなことで何気なくその石膏像の来歴を伺うと、30年以上前のもので、もともとアウル
美術研究所に置いてあったものだという。
アウルといえば、そう、セイジさんが通われたアトリエではないか。
しかも、置かれていた年代からして高校生であったセイジさんを見下ろしていた可能性が高い。
セイジさんご本人もひょっとするとその像を描かれたかもしれない。
なあんて考るに思う。
「これも縁か。」
こういう時は、状況の流れるにまかすに限る。そういう背景もあり、頂くことにしたのだ。
セイジさんを偲ぶイベントを前に、不思議といえば不思議だが、こういうことってよくある。

人生の流れは、高校のときに習った代数幾何の「空間ベクトル」に似ているように思う。
x軸・y軸・z軸で表現された空間の中を、ある方向性をもって動いていく点、座標が「現在」であり、
その軌跡がその人の歩んできた時間、すなわち人生だと言える。
描く軌跡の形はと言うと、方程式の中に値をあてはめることで導き出される。その主な値は時間
である。
値は時間の流れによって変化していくわけだが、無論、小さければ過去、
数値が増えていけば人生における時間が進んでいくわけで、三次元の表の中を立体的に
動いていく。
ならば未来にあるべき座標も決定できるではないかと言うことになるが、そうはならない。
なぜなら数値をあてはめるべき方程式は不変ではなく、持ち主の心のありよう、周囲の状況
によって簡単に変わってしまうからだ。簡単に言うと、昨日は z=6x+y だったものが、今日は 
z=x(x-2)-2y というように。
直線がいきなり弧を描きだしたり、予測はある程度立てられても、確定は不可能だ。
だからその人が人生の中で描き出すベクトルの軌跡は、とても複雑な形になっていく。
なおかつそれが一人ひとり違うのだから、それこそいかんともしがたいわけだ。

ただ、種々雑多、勝手気ままな直線曲線が、ある日交点を持つことがある。同じ座標を共有する
ことがあるのだ。簡単に言うと、なにがしかの出会い、関係をもつ瞬間ができる。
会話であったり、ケンカであったり、一緒にお酒を飲んだりとか、同じ空間を共に過ごすことだと
思っていい。交点が一つだけの時もあるし、複数できていくこともある。
同時に我々の方程式はお互いにある周期性を持つものがある。そうすると、交点が増える。
その同じ、あるいは似た周期性こそ、自分は「縁」なのだと思う。
同時に交点が発生することで方程式に変化が起こり、磁力を持つようにもなる。引き合いが
始まるわけだ。
かつ方程式は自分の意思で変えていくことも可能だ。
同じ周期性、また方程式の中に共通因数を持つもの同士は、必然的に同じ軌跡を持つことが
増える。同時に同じ方向性は「同調」も生むから、指向性を共有もできるのだ。
同調性、共通因数が多ければおおいほど、その相手とは「合う」わけである。

つまりラグビー部で言うと、われわれは皆「方程式が似ている」のである。あるいはx・y・zの変数の
幅が近いのだ。この場合、時間的変数の設定とは「x=運動好きの度合い・y=アツさ・z=体力」
とでもなるのだろうか、ちなみに比例定数は、もちろん「楕円球」となる。
まあ、われわれは少なくとも薄からざる縁によって結ばれているのだと言いたい。

妄想の説明が長くなって恐縮であるが、今回のことは人生の中の「交点」を強く意識できた。
おもしろいなあ。
また、これはれっきとした物理学の中で言われているもので、宇宙を説明するための方法として
「超弦理論」という仮説がある。
「全てのものは見えない糸(弦)で繋がっており、ある部分が振動することによってそれが他にも
伝わっていき、宇宙の中でのダイナミズムが生まれる。」

のだそうな。
にわかに信じがたい仮説だが、見えない糸を「縁」という言葉に置き換えればみれば、なんとなく
納得できる気がする。あれだ、日本ではもっとユーモラスに「風が吹くと桶屋がもうかる」とこの
仮説を表現しているように思うのだが、ちがうか。

まあとにかく、上の出来事で自分はふと道端でセイジさんに会い、「あ、お久しぶりです。」と挨拶
したような、そんな気分になった。そんでもらった石膏像「パジャント」は、今自分の職場の美術室
に置いてある。

も少し書きたいことが出てきたので、続く。



 

2010年5月27日木曜日

ナチュラルボーン・シンガー

オリジナリティーという言葉だが、いやはや難しい。
「独自性」というような意味で我々は理解しているはずである。
辞典でちゃんと調べていはいないのだが、個性、という意味合いもあるやろか。
手段は別として、表現するひとびとにとっては大きな意味合いのある言葉ではあろうかなと。

月に一回、ある歌い手のライブに行く。毎回ではないのだが、期日が決まっているので
行けるときは行くことにしている。
17・8ほどの若い人で、名を 「おおたえみり」 という、ピアノ弾き語りのなんつうんだ、
シンガー・ソングライターといえばよいのだろうか。
別に追っかけたり写真撮ったりなんてことはないのだが、あ、おれファンになってるな。
と自覚している。
名前を出してしまっているが、上の名で活動しておられるので、まあ問題なかろう。

ところで、彼女の歌の何が自分を惹きつけるのかと言うと、曲からにじむ、正にそのオリジナリティー
なのである。もちろん自分で作詞、作曲してはるわけで。
恐らく、この人にしか演奏できないであろう曲とコトバなんだろなと毎回感じる。
挙げるなら。

○惚れたハレたを歌わない。
○話が変にでかくない(平和がどうとか言わず、全く自分の輪郭のみ)
○社会に対する疎外感とか問題点などをアジらない。
○かと言って、自分応援歌ではない。

が揃っていて、聞いていて「しんどくならない」のでイイ。
なにより、作りたいものを正直に作っています感がひしひしと伝わってくるので、それが一番
好ましいのだ。そして、その姿勢を見習いたいと思っている。
頭痛がして薬を飲んだときの歌とか、散歩していて近道した時の歌とか、食べたトマトの
気持ちを考えてみたとか、なんだそりゃ、となる時もあるが、そのかざりっけのない歌作りへの
ありようが伝わってきて心地よく、お酒なんか飲みながら聞いているといい塩梅なのである。
ようするに、そういうことなのかなと思う。
売れる売れないに関わらず、評価のありようにこだわることなく、作りたいものを作る。作り続ける。
もちろん売れたいし褒められたいし、そういった気持ちをふまえて作品を出していくわけだが、
それが自分の中で肥大すぎてしまうと、個人的には「しんどなる」。
そういった作品を見るのも聞くのも、また作るのも、やっぱりしんどい。
そのバランス感覚が大事なのかなあ、何つって考えるが、ようわからん。コトバの使い方か、発表の
しかたか、道具とかでコントロールできたりするのだろうか。
言いようによっては、かなりの自己中心主義ともなるのかいな。

したがそういった意味で言っても、この歌うたいは聞きやすい。そんでしっかり毒もある。
しかしメジャー市場はどうだろなーと思ったりしてしまう。ウケにくさはやはりあるかもな。ただまあ、
大衆受けして売れ出して、今の良さが薄まっちゃったら困るなあ、とも。
とりあえずCDが出たら買おうと思っているのだけれど。

ハタから見ると、十代の女性歌手のよさを力説する三十路のおっさんなわけだが、とどのつまりは、
この若い歌い手に入れあげているこの状態を肯定する理由が欲しいのだ。
そしてもう一つ。
オリジナリティーとか独自性、個性なんてものは、出そうとして出るものでなく、好きなことに単純に
取り組み続けることで本人からにじみ出る、樹液みたいなものなのだと、この娘さんのライブを通して
毎月再確認してますという、以上二点を言いたかったのだ。

おおたえみり、あんまりメジャーにならんで欲しいな、なんて勝手な願いを持っちまっている。

2010年5月11日火曜日

ケンかと思っていたらタケシ

 先日の結婚披露宴で初めて知ったのだが、イガワ君の下の名を、自分は今のいままで
「ケン」だと思っていた。
タケシさんだったとは、知らなかったよおとみさん、今の今まで失礼しました。
ちなみにイガワタケシでなくヤマトタケシはレインボーマンの主人公であったな。死ね死ね団
と戦っとったな。

とにかく自分にとってはいきなりの話だったので、驚かぬこともなかった。
いつの間にそんな・・・。と本人からの電話があったとき思った。
しかし先日書いたとおり宴会好きの自分としては、お断りする理由などない。
そしてへたくそながら芸の一つも奉っておきたい。幹事のライメイ君とハガワ君からも
伺っていたので、一つおぼえの端芸の三線の練習をした。

どうせならハッピーな曲が良いとも思い、初挑戦の「りんごの木の下で」をやってみた。
映画「シコふんじゃった」のエンドロールで流れる、おおたか静流のうたう歌である。
「りんご~の木の~したで~、またあ~したあ~いましょ~」のあれだ。
多くの人がどっかで聞いたことがあるかと思うが、ホンワカした良い歌だ。
蛇足ながら、もともとはアメリカの古い歌(日露戦争の頃の作)なのだそうで、それが
昭和10年ごろ入ってきたのだそうだ、これも今回初めて知った。

そのまま歌おうと思っていたが、マアコさんのナイスアドバイスで、「ウルシの木の下で」
にして歌うこととなった。歌詞の中の「りんご」を「うるし」にしただけだが、なるほど、
そうした方が似つかわしい。そのアイデアを頂いたわけである。
つくづく感じるのだが、芸大関係の人のパーティーと言うのは、一般のそれらとは
かなり異質である。
要するに「芸才」が満ち満ちているというか、退屈しないと言うか、そういった場では
必ず誰かが芸を披露している。自分にそういったセンスが少ないので余計に強く感じる
のだが、
「何かを行う行動力(この場合、周囲を楽しませるということ)」
「少々緊張・不安・恥じらいはあれど、何かしたいというその欲求」
そういったものに長けた人々が高密度に集中しているのが我々芸大生(及び卒業生)
なのだと思っている。
それはいわば「異能の集団」と呼んで過言でもなかろう。まあ、事実そうなんだけれども。
自分が現役の頃の芸大祭の準備段階で、先輩たちが嬉々として作る
ハナからテントを使いもしないモルタル製の「二階建て」模擬店とか。
模擬店だかインスタレーションだかよくわからない建造物とか。
あるいは「美女コン」での異様なテンションとか(今はやっていなということで、残念だが)
そういうものを見て自分はほんまに上記の「異能」について思った。

そういったわけで今回のイガワ君の披露宴もその力の一端を幹事連が発揮し、自分も
便乗させていただいたわけだ。
ハガワ君が写真の「アゴターお面」を作ってくれ、それをかぶり自分は演奏したのであるが、
被り物をしての演奏はえらく勝手が違ったのでおぼつかない芸になってしまったのを深く
反省している。この辺でピシッとカッコをつけられないのが現在の自分の芸の限界である。
別にプロになるっていうのではないけれども、なんか悔しいではないか。
あまつさえ新郎イガワ氏から抽選とはいえ、手作りの器まで頂いていてはなおさらである。
この恩にはいつか報いねば!と心に決めた阪急電車の帰り道だった。
よいパーティーでした。幹事の方々、お疲れ様でした。

そしてイガワ君とそのワイフさんにはご多幸を。

2010年5月2日日曜日

ゆるいおっさんになりたくて2

前回、ゆるいおっさんになりたいと書いた。理由はなぜか。
またそうすることでどうして後輩と良い関係を築く事ができるなどと自分は思ってけつかるのか。
いや、理由は単純、自分が接し、この人は、と思う先輩がみなゆるい人たちだからだ。
厳密に言うと、良い意味で、ある部分においてとんでもなくゆるい面を持つ方々ばかりだった
からだ。
要するに、オモチロイのである。繰り返すが、良い意味で。
社会人としてしっかり生活しつつも、たまにこちらがおったまげるような姿を見せてくださる人々。
ご本人は、マジメである。
自分は、そういう人が大好きだ。
そういう人に自分もなりたいと思うのだが、かえりみるに、自分はいかにも中途半端に思え
仕方ない。
いまだ社会人としてどうかという所も甚だおぼつかぬ。なにより、ゆるいふりをしようとしている
自分にてれ臭さを感じてしまっている。これは演じるものではないのだ。
にじみでて魅力に醸し出されるもの、とでも言うのか。そう、酒に似てるかもな。
愛嬌、と言うとかわいいが、それにも似ているだろう。

いわゆる天然とはまた違うだろう。(自分は天然というのは本能的、あるいは無意識的な
「処世術」ではなかろうかと考えている。自己防衛本能の一つのような気もしている。)
かつまた、「ゆるキャラ」などとはまったく趣を異にするものである。
ただ、ここまで言いながら自分の中でも、ゆるさの定義、というものがいまだはっきりして
いないのが現状である。
じゃあ一体なんだんねん。

人に例えてみよう。

学生時代、ヒッチさんに伺った話。
かつて、四条河原町をヒッチさんとセンパイと二人で歩いておられたそうな。
隣を歩く先輩、なぜか殺気のみなぎった眼ですれ違う人を一々ねめつけはる。たまらず
ヒッチさんは尋ねた。
「なんでそんなに周りをにらんではるんですか?」
答えていわく。
「いやな、いつでもタックルにいけるようにすれ違う人でイメトレしてんねん。」
若き日のヤスイさんのお姿。
おそらくこの時分は、ヤスイさん渾身これ楕円形、顕微鏡で見る体細胞はことごとく
ラグビーボールの形であったことだろう。
これ、ゆるさと呼ばずなんとする。
また。
当時北星寮という下宿に住んでいた自分の部屋、夜中の一時ごろに電話があった(携帯電話
など持っていない)。
ワカさんから「ちょっと来えへん?」
そのころ自分はワカさんをよく知らなかったので、「強面のOBさんから呼び出された。」と
おっかなびっくりであった、しかも深夜の一時に突然である。ナカノ君もいた。おじゃましま~すと
上がらせてもらうと。
「うどん食べへん?」
讃岐は香川出身のワカさん、実家から送られたうどんを腹いっぱいいただいた、めちゃくちゃ
うまかった。男三人でうどんを手繰り上げ、ほんまにそれだけで帰った。
ワカさんはお酒をたしなまれないので、食後のお茶を頂いた後、「じゃ。」と終わったものである。
帰り道、ナカノ君と妙にぼーっとしつつ「何だったんだろう・・・。」と話しつつ帰った深夜二時半。
いいなあ、ゆるい。
そして。
自分が一・二回生のころ、二回だけOB戦に来てくださった(数を覚えているのは印象が強烈
すぎて忘れられないからだ)、ニシカワさん。
試合後のコンパ、体育館の前で、酔いもしないのにもろ肌脱ぎになってフリ付きで歌われた
「ドラゴンズ数え歌」。
「も~えよドラゴンズぅ~、いちばん!」
のこの歌をご記憶の方もたくさんおられるはずであると思う。どうしておられるのか気になる
自分なのだが。
この方にまつわるエピソードは枚挙に暇がないが、実際に目の当たりに出来たことは、今に
なってみると天佑とさえ言ってよい幸運であったと思う。

他にもたくさんおられるが、うちのラグビー部のOBさんたちの持つゆるさのグルーヴたるや、
面白さの梁山泊に例えてはばからない。心から尊敬している。
思えば、こういったすばらしい人たちにめぐり合えて、幸せな後輩ライフであったことよと改めて
思う。
そういたこともあり、おれっていまOBとしてどうなんだろう、と思わずにはおられないのだ。
だんだん支離滅裂になるが、THE BLUE HEARTS の曲の歌詞に
「愛することだけ考えて それでも誰かを傷つける そんなあなたが大好きだ そんな友達が
欲しかった」
てなものがある。
自分の中では、それがゆるさを求める入口である。「だから、ゆるい人になろう」と。
そうなるに至った流れを話すといつまでたっても記事が終わらなくなるので端折るが、初めて
聞いた時中学生だった自分は「あ~、そう、そうなんだよ。」とじんわり涙腺がゆるんでいたことを
白状しておく。
そしてその「あ~、そうなんだよ。」が今に至るも続いていることも白状しておく。成長しろ!ええ加減!!

とにかく。
好かれる好かれないの問題でなく、自分は年長者としてオモチロイ人になれているのかな、と
いう妙な不安がよぎることがある、こんなこと考えてる時点でうっとうしいことこの上ないが。

そんな風に考えつつ、菩薩のマリエ女史の家で飲んでおった。ほしたら、酔った。
もうこれ以上飲むとややこしい酔いどれと化すな、という自覚がぐるぐる揺らぎだした理性の
片隅に幸運にも生まれたので、お暇することにした。
さよならするときに見たマリエ女史の顔は、確かに菩薩のようであった。奈良興福寺の月光菩薩に
似てるかな、とふと思った。

えらいたらたらと自己弁護に終始してしまった、しかも「ゆるさって何?」という問にまったく答えて
いないぞ。酔っ払って書いたような記事になったが、しらふです。ああ、なんかまた恥ずかしい
ものを書いてしまったような気がする。

2010年4月22日木曜日

ゆるいおっさんたるべく

ありがたいことであるなあ、と感謝の気持ちにたえない。

先日お声掛けいただき、後輩たちの飲み会に寄せていただいた。
うれしくなってのこのこ出て行った自分である。
後輩OG、「菩薩」の異名をとるマリエ女史にお誘いいただいたわけで。

菩薩のマリエ、なんていうと仁侠映画を思い出してしまう。
サラシ一枚方肌脱ぎで、博徒の集まる賭場の中、「よござんすね?」と見栄を一閃、丁半切った
張った、サイコロふるふるやくざ渡世の女一匹、背中にゃ菩薩の刺青を、なんの因果か若気の
至り・・・なんてな劇画タッチのイメージなのだが、さにあらず、本人ひかえめな優しい方である。
 しかし、自分がマリエ女史の家にお邪魔したときにはすでに何人か集まっていたが、上がらせて
いただくとき、とりあえず心の中で「おひけえなすって!」と仁義を切っておいた。
部屋の奥には月代もぼうぼうたる博徒たちがたむろい、そのまた奥には畳のうず高く積んで
ある上にマリエの姉御がどっかりと座って・・・あまり妄想をたくましくしてはいけませんね。
ごく普通のお家でありました。

閑話休題。
前も書いたかもしれないが、ええかげん自分も年をとり、若者の中でわいわいきゃいきゃい
はしゃいでいてはいけない歳になっとるんちゃうかと反省することしきりの今日このごろ。
そういった若い集まりにいつまで出席していいものかっ!と悩む。左様さ、今回も多少悩んだ。
しかし、呼んでいただいたのを分別顔でお断りするキャラクターで自分はない。なおかつ
和気藹々の飲み会が自分は大好きなのである。どうしよう!
 んで、結局行くことにした。おれも懲りねーなーと阪急電車の中で苦笑いしつつ。

案の定、最終的に15人ほど集まったメンバーの中、自分が最年長という状態になって
しまっていた。んがっ!
新入部員のプレーヤー(1浪)も1人いて、彼と自分の年齢差が数えで15年の隔たりがあると
いうことを知り、頭がくらくらした。
自分が中三の時に、彼はこの娑婆に生れ落ちたわけだ。15年つったらあんた、結構なひらきで、
言葉や考え方、いやさ文化自体違うはず、ちょっと心配になった。だいじょぶかオレは?

されどもわざわざ飲み会の場で悩んでいてもしょうがないので、開き直って楽しく飲んだ。
ただ、自分は酔っ払うと周囲の人に説教をたれるという悪癖を持つので、それだけはすまいぞと
自分にいいきかせつつ杯を傾けた。
まあ基本的に自分はアダルトチルドレンなので(いや、精神幼児というべきか)、酔えばそういう
場所に抵抗は覚えない。一夜明け、あー楽しかった。の心境なのである。

「やじ馬」という耳の痛い言葉がある。
うるさいお邪魔虫というニュアンスもはらむ。なんでもおやじの「お(御)」という尊敬の接頭語を
取っ払ってただの「やじ」にしてしまったうえで、なおかつ馬と呼び捨てるということで成立したもの
らしいが、まことにいまいましさあふれる言葉というほかない。
そう呼ばれるようになったらいやだなあ、おしまいだなあと心配になるのだ。
だったらそういった場所に顔を出さんければよい話なのだが、なかなかそうも割り切れない
未練屋の自分である。楽しい場所には居たいではないか。
だがまた世阿弥の「風姿花伝」にも、歳をとれば出しゃばらず、一歩引くしか道はなし、みたいな
話しがある。なるほどなと思うのだ。じゃあ、もう引いていくしかないか。
しかし待て、こうもある。「歳相応のやりかたでみせるなら、それにふさわしき花もある」と。
要するに分を守っていけと言うことで、逆に言えばそれが出来ていればえんえんコンパに顔を
出していても邪魔にはならんということか。えらい都合のいい解釈かもな。

しかしそこでおのずと見えてくるものがあった。最近自分はそうやって生きて行こうかななどと
思っているかたちと一致する部分もある。
なのだが、それは
「ゆるいおっさん」になる、ということだ。なんじゃそら。

長くなるので続く。以下次号。

そして告知。
東京にてグループ展いたします。












2010年4月6日火曜日

つれづれなる日々に

ちと、この三ヶ月ほど、忙しいというか、しんんどかったので、不思議なものでキーをたたいて
記事を書く気になれなかった。追い詰められると他の道で発散したくなるものだが、はけ口に
向かう気力も失せてしまう有様だったので。

そんな中、つらつら思っていたことなど。

こないだのOB戦に行けなかった。
自分としてもやる気満々だったのだが、いかんともしがたい私事・家事都合・パーソナルだか
プライベートな理由で足を運べなかった。
しょうがないけど憤懣やるかたなし、夜に一人走りました。

ラグビー的な活動もであるからしてできておらず、観戦もままならぬ。モニターでの観戦も
よいが、やっぱりラグビー場に足を運びたい。花園なんぞで「ラガーまん」をほおばりながら、
トップリーグを観たいものだ。
そういえば、かつて花園での神戸製鋼の試合を見に行った時、現オーストラリア代表・ワラビーズ
のキャプテン、スターリング・モートロック選手にばったり会ったことがあった。
なぜかサブスタンドの方にいて、遠目に見ても不自然に巨大なシルエットが座っているので、よく
見ればモートロック。
「んがっ!モモモモートロック!!」
周囲の観客は全く気付いていない(気付けよラガーファンなら!)様子で、氏も私服でリラックスな
御按配、即話しかけた。

「卒時ながら、御貴殿は、ミスター・モートロックでは?」
「オ・オウイェ~。」
「かようなところに御出座されたる理由やホワイ?」
「イットイズ観光。」
「あ、握手してください。」

ぶしつけな自分に物腰もやわらかく笑顔で答えてくれた。
どうやらそのころ神戸製鋼への移籍の話しがあり、交渉がてらに家族旅行だったらしい。
飾らぬ性格で、テレビインタビューにバナナをほおばりながら答えるようなところのあるモ氏、
かなり嬉しかった。

しかし、190センチを超える体躯で、なおかつそれがガチガチに鍛えられているわけだが、そんな
人を目の当たりにすると。
「遠近感が変になる」。
ロード・オブ・ザ・リングの映画の中で、ホビットと人間が並んで歩くあの変なスケール感とでも
言おうか。
妙にでかいのだ。
オーラ、というのはそういうものなのか。






そういやこれも以前の話だが、フランス外人部隊に所属する韓国籍の現役兵士と同席したことが
あり、その人も妙なボリューム感を発していた。180センチほどで、優しい語り口の方だったが、
「あ、この人に逆らったら殺される。」
と背筋が寒くなったことがある。道端でばったり野生の虎に会ったとしたら。
そんなときに感じるプリミティヴな恐怖だったかと今になって思うのだ。

話が取りとめもなくなってきたからこの辺にしたいが、こうしとこう。
なにせ、ラグビーがしたい今日この頃なのである。

写真は、そのときのモーとロック氏である。
そしてちょっと気になって調べたら、自分、前にもほとんど同じ記事を書いておった。
いかん、ぼけている・・・。

2010年2月23日火曜日

シヤワセの楕円形

久々の更新になってしまった。

つい昨日、日曜のこと。3時も半ばになるころだったか。
公園でまどろんでいた。何とはなく買った、片手にはビールである。
さほど寒くもなく、のどかな空気、ええあんばい。
ええ年こいた三十路男が、公園でビール片手に和んでいる風景は悲惨なのか否か、そこは措く。

目の前には、子ども達がハイトーンの歓声を上げ、ボールなど蹴って遊んでいる。
ふと、それにまぎれてある親子連れが、これもボールで遊んでいた。父・母・娘の三人で。
最初は楽しげに、ドッヂボールの練習をしていた様子であったが、父が二人に声をかけた
様子だった。
声の聞こえる距離ではないものの三人、娘を中にして横に並び、ボールをやり取りし
始めたのだが、それ、どう見てもラグビーのパスなのである。しかも小走りにライン回しの
ようなことまでやっている。
自分、かなりハートウォーミング、さらに心が和むのであったが、すばらしいのは、その
家族の楽しげな様子だった。おどけつつ、終始笑顔でパスを送っているのである。
ボールは丸いものだったが、されどその瞬間、、確かにその家族の中においての絆は、
ラグビーによってはぐくまれていたのを自分はまのあたりにした。

ああ、お父さん、お母さんと娘さんにスクラムまで組ませて、ご自分はボールインと。
かつてのポジションはSHだったのですねお父さん。あ、サイドアタックまで。
お次は子どもさんにプレイスキックを教えておいでですか、ご自分で両手を上にあげ、
Hポールのつもりなのですね・・・。

よろしい、たいへんよろしいものを見させていただきました。
そのとき不覚にも、自分は泣きそうになった。滂沱の涙を流す所であった、うるうる来た。

彼らの幸せげな笑顔、たまの休みに家族でささやかにいつくしみあう場面に、他でなく
ラグビーが媒体としてあったのだ。
理屈はよう分からん、よう分からんが、なぜか自分はラグビーやっててよかった!
なんてな感慨を抱いたのである。
「巨人の星」の伴宙太のように、「俺は今、モーレツに感動している!」という思いだったのだ。
それは、体にあまねくいきわたったビールのアルコホル分のせいだけではなかったはずである。

自分が垣間見たある家族の幸せの形は、そのとき確かに楕円形であった。

二歳くらいの男の子が、ビール飲みながら目を潤ます自分を不思議そうにながめながら
砂場の砂を掘っていた。
心が安らいだんだぜということを言いたかった。

創作ではなく、実話として。

2010年1月31日日曜日

ハッピーなひととき

時間がたってしまったが、自分と同回生の副キャプテン、キムラ君の結婚披露宴について。
わざわざ人の結婚祝いをレポートするというのは良い趣味とはいえないかもだが、印象的で
あったので。

ラグビー部の、同回生の結婚披露宴に顔を出すのは今回が初だった。
かえすがえす思い出されるのは、初めて彼を見た日のことである。
隠しようも無く「ど」の付く田舎者であった自分が、彼を見たときどないに思うかというのは、
想像に難くない。
「あ、ヤクザが芸大におる。」
と、ぽんと思った。ごっついインパクト、カルチャーショックと呼んでよいものだった。
落とし前とか言って小指をつめられてしまうのではとびびっていた。

大学入学のその日から幾星霜、今、眼前に緊張の面持ちで紋付袴、新婦をとなりにして
座っているその姿に、なにやら感慨めいたものが無いでもなかった。
すごくしおらしく見え好感が持てた、嫁さんへの気配りも常に欠かさぬ。しかし披露宴の
新郎っちゅうのはそんなもんなのだろう、あれほど真っ赤っかになる彼を見るのは初めてで
、なんだか新鮮だった。
あの赤さはお酒のせいだけではあるまい。
幸せになってほしいものである。

閑話休題。
こういう場で面白いのはなんと言っても宴会芸であるが、さすが芸大関係、期待を裏切ることは
なかった。
自分はしょっぱなに三線を歌っただけだったのだが、その後に続いた面々はまさしく「芸」で
あったと思う。改めて感心してしまった。
自分ももっと磨かねば!なんてへんな発奮をしてしまった、だって面白かったんだもん。

自分のあとには後輩、マーコちゃんが踊り倒してくれた。面白かったのが、終わって舞台袖に
もどってくると、彼女、その場にがっくりと崩れ落ち、「反省モード」に入ってしまったのである。
あるいはやり切ったことからの脱力であったのだろうか。おつかれさん。

次はライメイ君とハガワ君の漫才だったのだが、パンイチ・網タイツのハガワ君が、ヨクラさんと
ケンタさんの愛娘さん二人にウケまくっていた。幼いころからそういった空気に触れておくことは
非常に良いことだ思うので、これからもどんどん顔を出して欲しいものだ。ヨクラさん愛娘の、
りんごの様につやつやと輝くほっぺが忘れられない。

そして次は、東京からお越しのチャーリーさんの裸芸、音に合わせてビキニ姿で練り歩いて
いただけなのに、どうしてあんなに面白いのか。もう人徳、オーラの域に達している。
この辺りで、もう皆さん立ち上がっての拍手喝采、一体感さえ出始めとった。
(東京からはわざわざ5人ほども出席があり、こちらとしても嬉しいものがあった。)

で、同回生ノハラ君と、後輩マサダ君の、あれはなんと呼べばいいのだろう、ミュージック演芸
とでも言おうか、見た人にしか分からない独特の芸へとなだれ込み、最後はナカノ君・フジイ君・
ヨコタ君の危なげないトリオ芸で結ばれたのである。
近くにおられたヒッチさんの
「いやー、彼らは、やる人たちやね!」
のコメントが全てを物語っていた。自分としては、見ていてすばらしい幸福感あふれる披露宴で
あったと思う。また、ヒッチさんを始め、本当に久しぶりにお会いできた方々もおられ、そういった
面でもうれしかった。
なんか芸だけのことばっかり書いてしまったが、そういったものに彩られた結婚を迎えた
キムラ夫妻、おめでとうさんです。
重ねて、幸福を。

そうそう、ユイさんの記録しておられた、シャ乱Qを台湾語?で歌いまくるキムラ君の映像と、
ライメイ君が題字を作り、新郎キムラ作の新郎新婦の生い立ちムービーも大変面白かった。
キムラ君、ちっちゃな頃からあのまんまだったのだなあ、やっぱり、と思ったのである。
そして、あの場をセッティングしてくれた、フジイ君たちの苦労にも、感謝せんければならぬなあ
と思うのだったが、やはりこの空気は、芸大ラグビー抜きでは考えられない状況だったわけである。
なんとも数奇といえばそうだ。ちと強引か。

※画像につきまして、顔ははっきり映っていないので良いかと言う判断で載せてしまいましたが、
一言いただければすぐに編集いたしますので、ご指摘くだされば幸いです。



2010年1月10日日曜日

ちゃんとメシ食おうね

花園で東福岡高校が圧倒的な強さで優勝した。
ここの選手の身体能力(体幹の強さ)が以上に高くなかったか?
いい選手が集まっているせいもあったからだろうが、まず倒れない。そして15人全員足が速い。
攻撃にしてもディフェンスにしてもわらわらと人数が湧いてきて、それがずーっとノーサイドまで続く。
すごいスタミナ。
しかしそれは、決勝戦の相手の桐蔭も同じタイプのちーむだった。両チームとも、ランニングラグビーが特色なのである。
では、勝敗の差となったのはなんだったのかを考えるに、自分は「めし」だと思う。
練習の効果をすばやく体に反映させる、要するに筋肉を大きくする、には食事が不可欠だ。それも
食べ方、メニュー、量、全てが反映されるはずで、ただ量を食うだけでは十分ではない。

例えば力士だが、早朝から朝飯を食べずにきつい稽古をし、その後朝食兼昼食のようにちゃんこ
を食べる。朝に食べずに動かされた体は栄養素を欲し、吸収率が高まっている。そうして食べる
ことにより、効果的に体を大きくすることができるのだそうだ。
それもあり、力士の場合、成長期が23歳頃まで続く。もともと大柄な少年たちが、さらにその稽古
と食事のペースによって大きくなるのだ。
まあそのあたりの話は、われらがマニアックFB、フジサキ君に聞くとわかりやすい。

ともあれ、今回の花園見ていて思うのは、それはいつもなのだが、基本が徹底的に守られている。
結局そこだ。低いタックル、こけてもすぐ起きる、簡単に転ばない。どのチームもそれがすばらしかった。
見習わなければならない、あのひたむきさ。
しかし、同じ練習をし、似たような能力を持ち、体も似たサイズであった場合、何が差になってくるといって、
それは日々の食事なはずだ。東福岡、練習以外で栄養面においてもかなり気を使っているはずだ。
あと根性かな?
でも花園の決勝戦で戦おうなんてえチームだから、根性で言ったら両校ともすごいに決まっている。
だから決勝戦を見ていて「ん!メシだ!!」強く思った。

みなさんも食事は大事ですね、しっかり食いましょう。

2010年1月6日水曜日

年の初めに










ここ二年ほど、ラグビー部と関係はないのだが、茨木市在住の先輩(サッカー部OB)の家で
新年会に寄せてもらっている。
学生時代の下宿が同じだった関係もあり、お付き合いさせていただいている。
世代的に言うと、自分が一番下で、大体自分の4~6年上の方々がほとんどかなと。
「わ~元気い?」
「おおっ!来とったんか、ひっさしぶりやの~。」
こんな言葉が飛び交う中、皆さんがんがん飲まれていた。
自分はこういう飲み会が大好きである。ほのぼのといけるのでずーっと飲んでいられる。

10人強の人がおられ、ラグビー部OBでは、オヤドマリさん、ナカヒガシさん、トキエダさんがおられた。
ほかにもみなさん、自分にとってはいい先輩方ばかりなので、自然にほほがゆるみ、ハッピーな
気分になれた。

しかしこれはマジメに思うのだが、みなさん年をとらない。ほんまに変わらない。
たぶんじじーになってしわしわになってもお互いおんなじこと言うてるで、というのは、トキエダさんの
言であったが、なるほどです。でも、それも楽しいですよね。

結局、夜中の3時ごろまで飲ませていただき、自分にしては珍しいことなのだが、ほろ酔い加減の
いい按配で帰宅できた。
来年も寄せてほしいなと望んでおります。

そしてこのブログ、本年もまたできるだけたくさん記事を書き、見られる方々のささやかな暇つぶし
になればいいなと思っております。また厳しくご指摘等いただければとも思っております、そういう
ことでぜひ、よろしくご指導のほどお願い申し上げます。





新年と言うことで、こんなんして遊んでいる私です。OB、オールドボーイ、歳くっても少年だぜ
ということで。
アダルト・チルドレンと言った方が当ってますかね。ビバ・ラ・ラッサ!