2012年2月29日水曜日

続・プロレスと闇

痛い話をする。
高校生の頃地方の美大受験生は、夏休みや冬休み、大手の受験アトリエで
集中講義を受けたりする。
約1ヶ月間、安宿(ユースホステルとか)のタコ部屋に押し込まれ、同じような
受験生や浪人生と過ごす。さすがに男女は別部屋だが、共同生活の様相を
呈すわけだ。
それ自体は面白い。
森本レオ似のアンニュイな外交官と知り合えたり、ゴッホの自画像そっくりの、
性格もかなりエキセントリックなスペイン人バックパッカーと熱い握手を交わし
たり、同じ言葉を10回繰り返しながらしゃべる、東京芸大10浪の28歳男性と
かみ合わぬ会話ができたりと、なかなか刺激的で楽しいわけだが。

高校生時分の年代の少年少女が複数一箇所にあつまって長期間過ごして
いると、必ず「ほれたはれた」の状況ができる。
まるで、バッタが集まると「群生相(色が変わり、飛翔力が高まり、凶暴になる)」
という形質に変身してしまうように、集団の中ですぐ三角関係とかになりやがっ
て、涙つきのセーシュンをしはる。
その中にあって自分はというと、筋肉少女帯とブルーハーツばっかり聴いてて、
口を開けばプロレスの話しかしないような坊主頭野郎だったので、そういった所
とは無縁だった。
自分自身も、旅館で恋愛茶番劇をかましやがるそんな彼らを「はん、愚民ども
めが!」とおおむね軽蔑していた。

そんなスタンスだったからか(どんなんや)、ある夜、同じ宿の女の子が、顔を
真っ青にして「ちょっと部屋に来て!」とやって来た。
女の子から声をかけてもらってうれしかったが、ただならぬ雰囲気に彼女らの
部屋にいくと、4人部屋のメンバーの1人が手首から血を流して泣いている。
前述の三角関係のもつれから、リストをカットしちまいやがったのである。
「たかが受験アトリエのしょーもない集団でなにをさらしとんねん!」
というのを鳥取弁でつっこみたかったが、そんな状況なもんで自分も頭から
血の気がずわーっとひき、脳幹にアドレナリンがどびゃーっと分泌されるのが
感じられた。気が動転し、アドレナリンでハイになった自分がしたことはというと。
「手首を切った子に説教3時間」
だった。

いや、もう血は止まってたし、情けないほどのためらい傷だったのがわかった
のでね。でも、赤く染まったタオルを今でも忘れられない。
細かい話はおくが、ようするに自傷行為で自分を振った男の気を引きたかったん
である。
話の1。

自分はよく実家で、山の中をさ迷い歩いていた。森林浴などではなく、道なき
所を1人でがんがん突き進み、葉っぱまみれになって孤独をかみしめる、という。
いまもそうだが、屈折してるなあ自分は。
山の中で一人でいると、感覚がさえて敏感になる。たまに野生動物(たぬき・いたち・
野良犬)にもばったり出くわしたりするのだが、そんなとき、近くに人の気配を感じ
、山の管理者だったら怒られるので逃げようとした瞬間、斜めに切った笹の茎を
踏み抜いてしまった。
声なんかでない。目をかっと見開いて、あまりの痛さに硬直してしまう。底の分厚い
靴だったが、やすやすと貫かれた。
何とか逃げ隠れ、靴を脱いでみれば、中は血の海、足の裏にはぽっこり穴が開いて
いる。気分はもう、白土三平「カムイ伝」の手負いの忍者。
「うぬ!不覚!あなどりがたし!」
追っ手がかかるといかんので、びっこを引きつつ逃げのびたのだった。
話の2。

最後に。
昔の「週刊プロレス」は結構ハードで、いまや伝説となった「グレイシー柔術道場破り
ルポ」というのをやっていた。これも自分が高校生の話だが。
安生洋二というレスラーが、単身ブラジルに渡り、当時無敵無敗をうたわれた
グレイシー道場になぐりこみを仕掛けて、プロレス最強を証明するというその模様を
写真入で紹介なんて、字面だけならば梶原一騎原作の漫画そのままの、アナーキ
ーな企画を実行して見せていた。

余裕の表情の安生選手が、「たのもー」なんて気軽にグレイシーファミリーに喧嘩を
売り、結果、グレイシー最強のヒクソン・グレイシーの手でぼろ雑巾のようにされて
放り出されるさまを克明に記録していた。
安生選手、本当の意味で血祭りにされていた。よく殺されなかったものである。
たぶんカメラがあったからだろうが、道場を破るどころか、「見せしめ」として
返り討ちになったのだ。
その記事を自分は息を飲んで読んだが、よく発売できたな。

確か映像でもあったような気がするが、「人間が血だるまにされていく様を載せる雑誌」
を自分は見、「やっぱりいろんな意味でプロレスと格闘技はすげえ」と思った。

今までの記事で強調してきたのは、いかにプロレスが「痛そー」であるか。
そして上の3つの挿話に共通する、自分が目の当たりにした「苦痛」。
というものどもである。
ここから自分は「少年犯罪とプロレス」とのつながりを見出すのだ。
終わらん!

2012年2月28日火曜日

告知

前回から続きっぱなしの記事の終わりが見えないままながら、またもや
ブログの場を私用で使うずうずうしさ。お許しを。

京都で個展いたします。 

小さいスペースですが、陶オブジェをまとめて。平面も少しかけようかなと。 
 
「潮(しお)のおと」 濱本裕介 小品展 



同時代ギャラリー Collage 
3月13日(火)~3月18日(日) 
12:00~19:00(最終日18:00まで) 

ギャラリーのHPでも出ておりますので、そちらもご覧ください。 
www.dohjidai.com/ 

自分は週末、16日金曜日~最終日までギャラリーにいる予定です。 
お近くの方はぜひおいでください。お遠くの方もぜひおいでください。 

2012年2月17日金曜日

プロレスと闇と

闇の深い犯罪とプロレスの関係とは。
その動機等を聞いて、短絡な、とは言いがたい。決して短絡ではないと思う。それは
それなりの理由があり、犯人になった少年なりの必然性があったはずであり、我々の
常識から考えて理解できないというだけだと思う。
だからっつって自分にも皆目わかりはしないのだが。

ストッパーがなく、脈絡がなく、動機さえ定かでない少年犯罪は、非常に2次元的だ。
立体感を感じない。もっと言うと、人間の体温をも感じない。
ふと思ったのだが、それってゲームや漫画のキャラクターがやってることのようだ。
と感じた。
ゲーム・アニメのストーリーに脈絡はない。そして質量のない虚構として存在する。
もし少年たちが、虚構の世界を舞台にたちまわっていたとしたら。
そのことはいろいろな場所で言われているとは思うが。

そして虚構と現実の境界線はしばしばあいまいで、ときに、両者がわれわれの足元で
入れ替わってしまうことも結構あるのではないか。

そのわかりやすい境界が、プロレスなのであると思う。
プロレスは、八百長ではない。エンターテインメントである(ジャイアント馬場談)。
こうあるとおり、前にも書いたことがあるが、それが本気かどうかが問題なのではない。
このスポーツは、エンターテインメントであるがために非常に漫画的でもある。善・悪の
役割がはっきりしたキャラクターが、顔にペイントしたり、マスクをかぶっていたり、いろ
んなレスラーがいて、それらが戦う。肉弾戦をテーマにしたパフォーマンスといってもよく、
その世界は限りなく現実に近い虚構であり、同時に限りなく虚構に近い現実でもあるわけだ。
そんなキャラクター実際いねーよ、と言いつつも、否定されることなくそいつらが目の前で
「お客のために」戦っている。時に流血さえしながら。
見る側はそれが本当の殺し合いでないことを理解しつつも、演出された戦いを楽しむ。
そのために我々には、「イメージの力」が問われ、また鍛えられる。
「うおっ!あの毒霧で眼がつぶれたんじゃないか!」
「あのヒールホールド、いたそー。」
「蛇の穴よりの刺客?なんだそれは!」
「ああっ!!フィギュア・フォー・レッグロック(四の字固め)!これで決まったあ!」
苦痛にゆがむレスラーの顔、「折れー!」という観客の声援、それをあおる実況、
ゴング、倒れて動かない者とレフェリーに腕を高く挙げられる者。二つの両極端に
分けられたリング。ああっ、勝者に恨みを抱くヒールが乱入してきた。パイプ椅子で
しばかれた勝者、くわあ、額から大流血だあ!!

こういうエンターテインメントであることは百も承知。しかし。

がきんちょだった自分においては、脳内麻薬が出るほどイマジネーションが刺激された。
いたそーな技のイメージは、痛みに対する恐怖を育ててくれた。プロレスという虚構が、
苦痛に対する実感を喚起してくれたのである。
かつ、実際小学校の砂場で友人とかけあった四の字固めは声を上げるほど痛かったし、
テレビではアントニオ猪木がタイガー・ジェット・シンの腕を本当に骨折させていた。
アンドレ・ザ・ジャイアントのひざを脱臼させていたのはキラー・カーンだったな。
現在でも高い頻度で死人が出る。そしてこれらは現実だ。舞台はリングという虚構
であるはずなのに。
虚構と現実入り混じるバトルスペクタクル意外になんと呼ぶべき。
プロレスはかっこよく、おもしろく、なにより「いたそー。」だった。
イマジネーションは鍛えられ、いつしか、これは危険だ。というストッパーが作られ
ていた。
漫画に近い世界に生きるプロレスラーによって、僕は自分と他人に対する苦痛の加減を
学んだ。だって、あんなんされたら痛いやん。軽々しくはかけられません。てな風に。

2012年2月15日水曜日

プロレスと私

性懲りもなく先年からの続きでござあす。

スポーツと社会のありようについてふと気づいたことが、プロレスに関してある。
我々1970年代中盤世代が小学校の半ばから中学校に差し掛かるころ、徐々に
プロレス文化が衰退し始めた。テレビ放送は深夜枠となり、観客動員も減って
いった。
いわゆる「インディーズ時代」と呼ばれる、ややアンダーグラウンドな状態に
入っていくのだが、プロレス人気の縮小に反比例する形で、不思議と時期を
おなじゅうして増えていったものがある。

少年犯罪。

それも、やんちゃくれな兄ちゃんが暴れるとかいった単純なものではなく、なんと
言おうかもっと闇の深い、ちょっと自分では理解のしがたい類のものが突然出て
きたように記憶している。
いちいち例を挙げるのはここではおくとして、それまで報道される機会がなかっ
ただけなのかよくわからないが、中には酸鼻を極めるものもあるのをご記憶の
方々も多かろう。
加えて奇妙だったのは、犯人となった少年たちから出る犯行動機の、起こした
事象と全くつりあいの取れない短絡さ・幼稚さだった。
動機を抱いて行動に飛躍するまでの脈絡があまりにもないのだ。

自分の欲求や衝動は、体の輪郭を超えない限り、虚構の域を出ない。絵空事同然
である。ただしそれを実体とするときには、かなりのエネルギーを必要とする。んで
その欲求・衝動が反社会的であればあるほど、実行の主体となる人間には大きな
負荷がかかるはずだと思う。
簡単に言ったら、犯罪を実行に移すまでに必要な(へんな言葉だが)勇気とか、
苦痛、うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ、あるいは思想など。そんなものがかなり高まら
ないと、なかなか重大な犯罪を実行するなんてことは不可能だと思うのだ。
嫌いな相手とはいえ、なんぼなんでもその命をすぐ奪ったろうなんては思いません
わな普通。
安易に極端な行動を避けようとする「ストッパー」が我々の中にはあり、そのタガが
外れてしまう状態なんてなあ、およそ異常といっていいと思う。
(ただし、原理主義的な思想の中に生きる人間においては別の話だが。)

しかし昨今の犯罪において、そのストッパーが外れるレベルというのが、我々の持つ
感覚からは拍子抜けするほどに低い。「え?そんなんで??」と声を上げたくなるほど
に。
「ちょっと試してみたかったから」人を傷つけ、態度を注意されたから「ふと殺そう」
と思う心理を理解できる人、ハイ、挙手願います。

自分も、妄想の中でならいくらでも世界を壊滅させたり、無差別殺人をやってみたり
なんかはした(ちなみにその出で立ちは、赤い越中ふんどし一丁に南蛮渡来の鉄兜を
かぶり、全身金粉塗りで真珠のネックレスを打ち振りつつ、刃渡り2メートルの大太刀
を奇声とともに振り回しながら、東京は銀座三越ビルの前を全力疾走で駆け抜けると
いうものであった)が。
でも、それを実行に移したことはない。だっていやだもん。
では、なぜに「だっていやだもん」の心理がなくなってしまうのか。

なんか、記事が泥沼化してきた気がするが、まだ書く。

2012年2月9日木曜日

陽にかみついてほとけを拝め

謹賀新年ぼなねレザムール。
先年末からこっち、記事も書かんと何を自分はさらしていたかというと、
なにもやっていない。廃人であった。
年賀状も書かない不義理な自分である。
自分の感覚としては今ごろが年明けの実感が芽生えてきたので、なので
今が自分の新年あけましたな状態。で、あるからして新年のご挨拶という
わけだが。
この新年ボケは、今年の大晦日までには元にもどせるかと。
OBブログもがんばって書いていく所存であります。
みなみな様におかれましても、つつがなき一年であられますようお祈り
申し上げます。
ラグビーにさちあれ。戦士には栄光あれ。