2010年5月31日月曜日

えにしにゆれる日々のうち

6月に恒例の谷口青児杯が予定されている。
それに関して、ちょっとした出来事があったので。

5月頭に石膏像を引き取らないかという話が舞い込んできた。
一応教員をしているので、美術室におきたいと思い、また個人的な好みとして
石膏像が好きなので、もらうことにした。
それらがたくさん並んでいる美術室って、それらしくて良いし。

石膏像というのは結構旅をする。高価でなこともあり、ぽんぽん捨てられることは
少ないのではないか。
特に古いものになると、像を起こす型が新しいこともあり、ピリッとシャープなラインが生きていて、
多少汚れていても十分美しい。
自分が美術の師に初めて教わったのが石膏像の木炭デッサンでもあったので、親しみ深い。
なものでこんな話があるとついついもらってしまうのである。

そんなことで何気なくその石膏像の来歴を伺うと、30年以上前のもので、もともとアウル
美術研究所に置いてあったものだという。
アウルといえば、そう、セイジさんが通われたアトリエではないか。
しかも、置かれていた年代からして高校生であったセイジさんを見下ろしていた可能性が高い。
セイジさんご本人もひょっとするとその像を描かれたかもしれない。
なあんて考るに思う。
「これも縁か。」
こういう時は、状況の流れるにまかすに限る。そういう背景もあり、頂くことにしたのだ。
セイジさんを偲ぶイベントを前に、不思議といえば不思議だが、こういうことってよくある。

人生の流れは、高校のときに習った代数幾何の「空間ベクトル」に似ているように思う。
x軸・y軸・z軸で表現された空間の中を、ある方向性をもって動いていく点、座標が「現在」であり、
その軌跡がその人の歩んできた時間、すなわち人生だと言える。
描く軌跡の形はと言うと、方程式の中に値をあてはめることで導き出される。その主な値は時間
である。
値は時間の流れによって変化していくわけだが、無論、小さければ過去、
数値が増えていけば人生における時間が進んでいくわけで、三次元の表の中を立体的に
動いていく。
ならば未来にあるべき座標も決定できるではないかと言うことになるが、そうはならない。
なぜなら数値をあてはめるべき方程式は不変ではなく、持ち主の心のありよう、周囲の状況
によって簡単に変わってしまうからだ。簡単に言うと、昨日は z=6x+y だったものが、今日は 
z=x(x-2)-2y というように。
直線がいきなり弧を描きだしたり、予測はある程度立てられても、確定は不可能だ。
だからその人が人生の中で描き出すベクトルの軌跡は、とても複雑な形になっていく。
なおかつそれが一人ひとり違うのだから、それこそいかんともしがたいわけだ。

ただ、種々雑多、勝手気ままな直線曲線が、ある日交点を持つことがある。同じ座標を共有する
ことがあるのだ。簡単に言うと、なにがしかの出会い、関係をもつ瞬間ができる。
会話であったり、ケンカであったり、一緒にお酒を飲んだりとか、同じ空間を共に過ごすことだと
思っていい。交点が一つだけの時もあるし、複数できていくこともある。
同時に我々の方程式はお互いにある周期性を持つものがある。そうすると、交点が増える。
その同じ、あるいは似た周期性こそ、自分は「縁」なのだと思う。
同時に交点が発生することで方程式に変化が起こり、磁力を持つようにもなる。引き合いが
始まるわけだ。
かつ方程式は自分の意思で変えていくことも可能だ。
同じ周期性、また方程式の中に共通因数を持つもの同士は、必然的に同じ軌跡を持つことが
増える。同時に同じ方向性は「同調」も生むから、指向性を共有もできるのだ。
同調性、共通因数が多ければおおいほど、その相手とは「合う」わけである。

つまりラグビー部で言うと、われわれは皆「方程式が似ている」のである。あるいはx・y・zの変数の
幅が近いのだ。この場合、時間的変数の設定とは「x=運動好きの度合い・y=アツさ・z=体力」
とでもなるのだろうか、ちなみに比例定数は、もちろん「楕円球」となる。
まあ、われわれは少なくとも薄からざる縁によって結ばれているのだと言いたい。

妄想の説明が長くなって恐縮であるが、今回のことは人生の中の「交点」を強く意識できた。
おもしろいなあ。
また、これはれっきとした物理学の中で言われているもので、宇宙を説明するための方法として
「超弦理論」という仮説がある。
「全てのものは見えない糸(弦)で繋がっており、ある部分が振動することによってそれが他にも
伝わっていき、宇宙の中でのダイナミズムが生まれる。」

のだそうな。
にわかに信じがたい仮説だが、見えない糸を「縁」という言葉に置き換えればみれば、なんとなく
納得できる気がする。あれだ、日本ではもっとユーモラスに「風が吹くと桶屋がもうかる」とこの
仮説を表現しているように思うのだが、ちがうか。

まあとにかく、上の出来事で自分はふと道端でセイジさんに会い、「あ、お久しぶりです。」と挨拶
したような、そんな気分になった。そんでもらった石膏像「パジャント」は、今自分の職場の美術室
に置いてある。

も少し書きたいことが出てきたので、続く。



 

2010年5月27日木曜日

ナチュラルボーン・シンガー

オリジナリティーという言葉だが、いやはや難しい。
「独自性」というような意味で我々は理解しているはずである。
辞典でちゃんと調べていはいないのだが、個性、という意味合いもあるやろか。
手段は別として、表現するひとびとにとっては大きな意味合いのある言葉ではあろうかなと。

月に一回、ある歌い手のライブに行く。毎回ではないのだが、期日が決まっているので
行けるときは行くことにしている。
17・8ほどの若い人で、名を 「おおたえみり」 という、ピアノ弾き語りのなんつうんだ、
シンガー・ソングライターといえばよいのだろうか。
別に追っかけたり写真撮ったりなんてことはないのだが、あ、おれファンになってるな。
と自覚している。
名前を出してしまっているが、上の名で活動しておられるので、まあ問題なかろう。

ところで、彼女の歌の何が自分を惹きつけるのかと言うと、曲からにじむ、正にそのオリジナリティー
なのである。もちろん自分で作詞、作曲してはるわけで。
恐らく、この人にしか演奏できないであろう曲とコトバなんだろなと毎回感じる。
挙げるなら。

○惚れたハレたを歌わない。
○話が変にでかくない(平和がどうとか言わず、全く自分の輪郭のみ)
○社会に対する疎外感とか問題点などをアジらない。
○かと言って、自分応援歌ではない。

が揃っていて、聞いていて「しんどくならない」のでイイ。
なにより、作りたいものを正直に作っています感がひしひしと伝わってくるので、それが一番
好ましいのだ。そして、その姿勢を見習いたいと思っている。
頭痛がして薬を飲んだときの歌とか、散歩していて近道した時の歌とか、食べたトマトの
気持ちを考えてみたとか、なんだそりゃ、となる時もあるが、そのかざりっけのない歌作りへの
ありようが伝わってきて心地よく、お酒なんか飲みながら聞いているといい塩梅なのである。
ようするに、そういうことなのかなと思う。
売れる売れないに関わらず、評価のありようにこだわることなく、作りたいものを作る。作り続ける。
もちろん売れたいし褒められたいし、そういった気持ちをふまえて作品を出していくわけだが、
それが自分の中で肥大すぎてしまうと、個人的には「しんどなる」。
そういった作品を見るのも聞くのも、また作るのも、やっぱりしんどい。
そのバランス感覚が大事なのかなあ、何つって考えるが、ようわからん。コトバの使い方か、発表の
しかたか、道具とかでコントロールできたりするのだろうか。
言いようによっては、かなりの自己中心主義ともなるのかいな。

したがそういった意味で言っても、この歌うたいは聞きやすい。そんでしっかり毒もある。
しかしメジャー市場はどうだろなーと思ったりしてしまう。ウケにくさはやはりあるかもな。ただまあ、
大衆受けして売れ出して、今の良さが薄まっちゃったら困るなあ、とも。
とりあえずCDが出たら買おうと思っているのだけれど。

ハタから見ると、十代の女性歌手のよさを力説する三十路のおっさんなわけだが、とどのつまりは、
この若い歌い手に入れあげているこの状態を肯定する理由が欲しいのだ。
そしてもう一つ。
オリジナリティーとか独自性、個性なんてものは、出そうとして出るものでなく、好きなことに単純に
取り組み続けることで本人からにじみ出る、樹液みたいなものなのだと、この娘さんのライブを通して
毎月再確認してますという、以上二点を言いたかったのだ。

おおたえみり、あんまりメジャーにならんで欲しいな、なんて勝手な願いを持っちまっている。

2010年5月11日火曜日

ケンかと思っていたらタケシ

 先日の結婚披露宴で初めて知ったのだが、イガワ君の下の名を、自分は今のいままで
「ケン」だと思っていた。
タケシさんだったとは、知らなかったよおとみさん、今の今まで失礼しました。
ちなみにイガワタケシでなくヤマトタケシはレインボーマンの主人公であったな。死ね死ね団
と戦っとったな。

とにかく自分にとってはいきなりの話だったので、驚かぬこともなかった。
いつの間にそんな・・・。と本人からの電話があったとき思った。
しかし先日書いたとおり宴会好きの自分としては、お断りする理由などない。
そしてへたくそながら芸の一つも奉っておきたい。幹事のライメイ君とハガワ君からも
伺っていたので、一つおぼえの端芸の三線の練習をした。

どうせならハッピーな曲が良いとも思い、初挑戦の「りんごの木の下で」をやってみた。
映画「シコふんじゃった」のエンドロールで流れる、おおたか静流のうたう歌である。
「りんご~の木の~したで~、またあ~したあ~いましょ~」のあれだ。
多くの人がどっかで聞いたことがあるかと思うが、ホンワカした良い歌だ。
蛇足ながら、もともとはアメリカの古い歌(日露戦争の頃の作)なのだそうで、それが
昭和10年ごろ入ってきたのだそうだ、これも今回初めて知った。

そのまま歌おうと思っていたが、マアコさんのナイスアドバイスで、「ウルシの木の下で」
にして歌うこととなった。歌詞の中の「りんご」を「うるし」にしただけだが、なるほど、
そうした方が似つかわしい。そのアイデアを頂いたわけである。
つくづく感じるのだが、芸大関係の人のパーティーと言うのは、一般のそれらとは
かなり異質である。
要するに「芸才」が満ち満ちているというか、退屈しないと言うか、そういった場では
必ず誰かが芸を披露している。自分にそういったセンスが少ないので余計に強く感じる
のだが、
「何かを行う行動力(この場合、周囲を楽しませるということ)」
「少々緊張・不安・恥じらいはあれど、何かしたいというその欲求」
そういったものに長けた人々が高密度に集中しているのが我々芸大生(及び卒業生)
なのだと思っている。
それはいわば「異能の集団」と呼んで過言でもなかろう。まあ、事実そうなんだけれども。
自分が現役の頃の芸大祭の準備段階で、先輩たちが嬉々として作る
ハナからテントを使いもしないモルタル製の「二階建て」模擬店とか。
模擬店だかインスタレーションだかよくわからない建造物とか。
あるいは「美女コン」での異様なテンションとか(今はやっていなということで、残念だが)
そういうものを見て自分はほんまに上記の「異能」について思った。

そういったわけで今回のイガワ君の披露宴もその力の一端を幹事連が発揮し、自分も
便乗させていただいたわけだ。
ハガワ君が写真の「アゴターお面」を作ってくれ、それをかぶり自分は演奏したのであるが、
被り物をしての演奏はえらく勝手が違ったのでおぼつかない芸になってしまったのを深く
反省している。この辺でピシッとカッコをつけられないのが現在の自分の芸の限界である。
別にプロになるっていうのではないけれども、なんか悔しいではないか。
あまつさえ新郎イガワ氏から抽選とはいえ、手作りの器まで頂いていてはなおさらである。
この恩にはいつか報いねば!と心に決めた阪急電車の帰り道だった。
よいパーティーでした。幹事の方々、お疲れ様でした。

そしてイガワ君とそのワイフさんにはご多幸を。

2010年5月2日日曜日

ゆるいおっさんになりたくて2

前回、ゆるいおっさんになりたいと書いた。理由はなぜか。
またそうすることでどうして後輩と良い関係を築く事ができるなどと自分は思ってけつかるのか。
いや、理由は単純、自分が接し、この人は、と思う先輩がみなゆるい人たちだからだ。
厳密に言うと、良い意味で、ある部分においてとんでもなくゆるい面を持つ方々ばかりだった
からだ。
要するに、オモチロイのである。繰り返すが、良い意味で。
社会人としてしっかり生活しつつも、たまにこちらがおったまげるような姿を見せてくださる人々。
ご本人は、マジメである。
自分は、そういう人が大好きだ。
そういう人に自分もなりたいと思うのだが、かえりみるに、自分はいかにも中途半端に思え
仕方ない。
いまだ社会人としてどうかという所も甚だおぼつかぬ。なにより、ゆるいふりをしようとしている
自分にてれ臭さを感じてしまっている。これは演じるものではないのだ。
にじみでて魅力に醸し出されるもの、とでも言うのか。そう、酒に似てるかもな。
愛嬌、と言うとかわいいが、それにも似ているだろう。

いわゆる天然とはまた違うだろう。(自分は天然というのは本能的、あるいは無意識的な
「処世術」ではなかろうかと考えている。自己防衛本能の一つのような気もしている。)
かつまた、「ゆるキャラ」などとはまったく趣を異にするものである。
ただ、ここまで言いながら自分の中でも、ゆるさの定義、というものがいまだはっきりして
いないのが現状である。
じゃあ一体なんだんねん。

人に例えてみよう。

学生時代、ヒッチさんに伺った話。
かつて、四条河原町をヒッチさんとセンパイと二人で歩いておられたそうな。
隣を歩く先輩、なぜか殺気のみなぎった眼ですれ違う人を一々ねめつけはる。たまらず
ヒッチさんは尋ねた。
「なんでそんなに周りをにらんではるんですか?」
答えていわく。
「いやな、いつでもタックルにいけるようにすれ違う人でイメトレしてんねん。」
若き日のヤスイさんのお姿。
おそらくこの時分は、ヤスイさん渾身これ楕円形、顕微鏡で見る体細胞はことごとく
ラグビーボールの形であったことだろう。
これ、ゆるさと呼ばずなんとする。
また。
当時北星寮という下宿に住んでいた自分の部屋、夜中の一時ごろに電話があった(携帯電話
など持っていない)。
ワカさんから「ちょっと来えへん?」
そのころ自分はワカさんをよく知らなかったので、「強面のOBさんから呼び出された。」と
おっかなびっくりであった、しかも深夜の一時に突然である。ナカノ君もいた。おじゃましま~すと
上がらせてもらうと。
「うどん食べへん?」
讃岐は香川出身のワカさん、実家から送られたうどんを腹いっぱいいただいた、めちゃくちゃ
うまかった。男三人でうどんを手繰り上げ、ほんまにそれだけで帰った。
ワカさんはお酒をたしなまれないので、食後のお茶を頂いた後、「じゃ。」と終わったものである。
帰り道、ナカノ君と妙にぼーっとしつつ「何だったんだろう・・・。」と話しつつ帰った深夜二時半。
いいなあ、ゆるい。
そして。
自分が一・二回生のころ、二回だけOB戦に来てくださった(数を覚えているのは印象が強烈
すぎて忘れられないからだ)、ニシカワさん。
試合後のコンパ、体育館の前で、酔いもしないのにもろ肌脱ぎになってフリ付きで歌われた
「ドラゴンズ数え歌」。
「も~えよドラゴンズぅ~、いちばん!」
のこの歌をご記憶の方もたくさんおられるはずであると思う。どうしておられるのか気になる
自分なのだが。
この方にまつわるエピソードは枚挙に暇がないが、実際に目の当たりに出来たことは、今に
なってみると天佑とさえ言ってよい幸運であったと思う。

他にもたくさんおられるが、うちのラグビー部のOBさんたちの持つゆるさのグルーヴたるや、
面白さの梁山泊に例えてはばからない。心から尊敬している。
思えば、こういったすばらしい人たちにめぐり合えて、幸せな後輩ライフであったことよと改めて
思う。
そういたこともあり、おれっていまOBとしてどうなんだろう、と思わずにはおられないのだ。
だんだん支離滅裂になるが、THE BLUE HEARTS の曲の歌詞に
「愛することだけ考えて それでも誰かを傷つける そんなあなたが大好きだ そんな友達が
欲しかった」
てなものがある。
自分の中では、それがゆるさを求める入口である。「だから、ゆるい人になろう」と。
そうなるに至った流れを話すといつまでたっても記事が終わらなくなるので端折るが、初めて
聞いた時中学生だった自分は「あ~、そう、そうなんだよ。」とじんわり涙腺がゆるんでいたことを
白状しておく。
そしてその「あ~、そうなんだよ。」が今に至るも続いていることも白状しておく。成長しろ!ええ加減!!

とにかく。
好かれる好かれないの問題でなく、自分は年長者としてオモチロイ人になれているのかな、と
いう妙な不安がよぎることがある、こんなこと考えてる時点でうっとうしいことこの上ないが。

そんな風に考えつつ、菩薩のマリエ女史の家で飲んでおった。ほしたら、酔った。
もうこれ以上飲むとややこしい酔いどれと化すな、という自覚がぐるぐる揺らぎだした理性の
片隅に幸運にも生まれたので、お暇することにした。
さよならするときに見たマリエ女史の顔は、確かに菩薩のようであった。奈良興福寺の月光菩薩に
似てるかな、とふと思った。

えらいたらたらと自己弁護に終始してしまった、しかも「ゆるさって何?」という問にまったく答えて
いないぞ。酔っ払って書いたような記事になったが、しらふです。ああ、なんかまた恥ずかしい
ものを書いてしまったような気がする。