2013年9月18日水曜日

蓼にしびれた舌、変な味のお茶の夜 3

セイジさんの話であったので、思い出すまま、自分の手元にある画像を
揚げさせていただきます。

下は、世代はわからないのだが、恐らく金沢四芸での一枚であると思う。
セイジさんとともに写るのは、左からナカネ君、シモダイラ君、オカモト君、
奥にソメヤ君。




二枚目。
だいぶ世代はさかのぼり、しかしこれも金沢四芸の一回戦、1995年、試合
直前の円陣。キャプテン・ホカさん、副キャプテン・メケさん。
なぜ詳しく憶えているかというと、当時二回生の自分もこの写真の中にいた
からだ。尋常でない緊張感だったのを覚えている。
相手は愛知、この試合でフッカーだった自分は右肩を亜脱臼し、決勝では
一回生でウィングのクボタ君は左足のじん帯を切った。
確か、ナカノ君もこのとき額を割ってなかったっけ。けっこう壮絶な試合
だったと記憶するが。

このジャージ、たいへん懐かしい。




思えばセイジさんはいつも写真のように円陣に寄り添い、目をうるませ、
声も少し震わせながらながら我々を激励してくれた。
自分が首脳陣の愛知四芸でも、決勝戦前、ガチガチに緊張している自分に
ぼそっと言ってくだすった言葉を今でも覚えている。

「(東京藝大を指し)あいつらは今確かに強い。でも、過大評価はせんでええ。
お前らは負けへん。それだけのことはしてきた。」

言い切ってもらえたせいか、なぜかすっと肩が軽くなったのだ。

やはり、感謝の思いしか浮かんでこない。


2013年9月16日月曜日

蓼にしびれた舌、変な味のお茶の夜 2

たぶん、手前勝手に走り、普段よりさらに読みにくい文になっていると思う。
ひらにご容赦願いたい。

8月11日の夜にお誘いを頂き、食事会は12日の夜であった。
自分は12・13日と仕事があったので、夜遅くに行かせてもらい、一時間ほどで
おいとまごいということになってしまった。
セイジさんにお会いするとき、なぜか自分はいつもこうなんである。
行くといえば遅刻し、帰るとなれば妙なタイミングで。畢竟、自分が不義理な
人間であるということの証なんだろう。

ところで食事会の当日、12日の朝ちょいと奇妙なことがあった。
自分は大阪八尾のショッピングモールにいた。んで、そこで仕事の道具を
広げると、全く唐突に自分の目の前にカブトムシが現れた。
本当に唐突に、ころり、と。
普通ありえない状況だと思う。
なぜに?とひとりごちてしまった。

偶然としてもいいだろう。こういうこともあるだろう。
しかし選びも選んだりこの日このタイミングで出てきてもらっては、その事象の
裏側にある意味を考えたくなってしまってもしょうがないではないか。
自分は、あ、そういうことか、と思った。
あれだ。いわゆる虫の知らせというよりは、「先触れ」というやつである。
雨の前の蛙の声、春の前に萌える蕗の薹。
何かの始まる前に姿を現すなにか。
おそらく、こんなのはそう不思議なことでもないと思う。
というよりも、「だいじょぶかおまえ、ちゃんと来れるんやろうな?」と、
ご心配いただいた上で送られたお使いだったのかもしれんな。

自分は霊とかあの世とか、ようわからん。
無ければ無いでそれはそれ、あればあるでいつか自分もお世話になる場所
ではあるのだから、どうぞよろしうくらいの認識である。
しかし、縁というものは信じている。
縁が重なったり離れたり、ちょっとからんだりしながら人と人とは生きている。
今できた縁の震えが、後に伝わって何かを起こす。
うまく言えないが、自分がラグビーを始めたときから、何かしらこうした
つながりができ、新しい枝分かれを生み出してきたのだ。
物理学の世界では、「超弦論」という仮説があると聞く。宇宙の中にあまねく
すべてのものは、目に見えぬ「弦」でつながっており、その振動が
影響しあってすべての出来事が起こるのだとか。
科学の世界でそんなことが議論にのぼるなら、縁の話を信じたって
おかしくはなかろう。
とにかく自分はカブトムシを見て、これも何かの縁やなと、立派な角のそいつを
ダンボール箱に入れた。

もうそうなると頭の中は「セイジさんちとカブトムシ、セイジさんちとカブトムシ」
で一杯になってくるのであって、仕事終わりが待ち遠しかった。
だが結局、セイジサンのお宅のある京阪鳥羽街道に着いたのは、夜も
九時を大分過ぎてからであったわけだが。


2013年9月8日日曜日

蓼にしびれた舌、変な味のお茶の夜 1

セイジさん夫人、玲子さんは中国地方、岩国のお生まれだそうである。
夫人の語る郷土愛あふれるお話は、むしろ感動的であった。
岩国の土は、「赤い」のだそうだ。その土から育つ「蓼(たで)」は、大ぶりで
大変刺激が強い。ことわざに「蓼食う虫も好き好き」とあるが、その意味が
よくわかった。鮎料理に欠かせない「たで酢」のイメージとは全く異なる
個性的な野趣があった。昔の日本人が口にしていた蓼とは、まさにこれ
だったのだろう。
そして、夫人の幼い頃、実家の最寄り駅周辺は、一面大きな大きな蓮に
覆われた美しいところだったのだという。
そしてその蓮の花についてこう説明された。
口を閉じたままとがらせ、「ぽ」の形に開けると、小さく「ポン」と鳴る。
蓮の花が開く瞬間、確かにその音がするのだという。なんていい風景だろう。
また、その花の下から採れる蓮根は柔らかく、餅を食べるような食感
なのだそうだ。レンコンのイメージからはかけ離れた話で、実際、関西に
出てきて食べたレンコンに、夫人はびっくりしたそうだ。

そうやって中国は瀬戸内西部地方の訛がうっすら混じる夫人の話は、
大変耳に心地よく、蓮の花のくだりではまるで岩国という土地は
極楽か西方浄土なのではなかろうかとさえ思わされるほどのなごみの
グルーブに満ちていた。

偶然にも自分は夫人と同じく中国地方、鳥取中部は因幡で育った。ただ、
玲子夫人とは違い、山陽瀬戸内ではなく中国山地をはさんだ日本海側、
山陰の地である。
そして、そこの土はおもしろいことに「黒い」。
地元では「黒ぼく」と呼ぶが、岩国の赤い土、因幡の黒い土。個人的に
その対比が興味深かったこともあり、大変面白く過ごさせていただいた。
セイジさんのお宅にお邪魔してである。


上の話は、ナカノくんからお誘いをいただいた集まりでのことだ。
セイジさん宅でのお食事会という、気軽なものでということで。
偲ぶ会としなかったのは、気を遣わせまいとするナカノ君の気遣い
だったのだろう。深読みか。
そのお誘いををPCで見たとき
「あ、セイジさんに呼んでいただけたのだな」
と自然に感じた。
感情的な話になってしまうが
「お前どうしてんねん、たまには顔見せえや。」と、あの懐かしいニヤリ、
とした笑顔で肩をたたかれたような気がした。

ハマモトは、結局セイジさんに不義理ばかりしかつそれをすすぐもことなく
きてしまった。聞けば今回で七回忌になるとのこと。
あらためて自分のおろかさに情けなくなる。自分はお見舞いにも行かず、
お通夜に行っただけでその後、お墓にも参らず、気付けばはや七年、
何一つすることなく過ごしたのだ。
自分から何もせぬまま、挙句の果てに、ついにあちらから誘わせる
という形をとってしまったのだ。
これを失礼といわずしてなんと呼ぶか。
「谷口青児杯に参加しよーねー。」などと、どの口がほざくのか。
ずっとひっかかってきた(さりとてなにをやるでなしなのがまたサイアク)。

今さら謝罪したところで安易な自己完結になるだけなのは目に見えて
いたが、しかしとにかく行って拝ませてもらおうと思った。こういう縁が
めぐってきたのだから。これを逃せば、たぶん何かがずっと
遠ざかってしまう。行かねばならない、とふと思ったのだ。
8月11日、夜のことだった。

長くなるので、つづく。