2009年12月31日木曜日

ラグビー映画

クリント・イーストウッド監督の映画が、来年上映される。

「インビクタス・負けざる者たち」

1995年、南アフリカ開催のラグビー世界杯が舞台である。
ネルソン・マンデラ役でモーガン・フリーマン、南アキャプテン・ピナール役でマット・デイモン。

 まず、主なストーリーがラグビーを中心に 展開されていく人間ドラマである、というのが斬新である。ラグビーは漫画にするにも映像にするにも、難しいスポーツなのに。
成功例は、「スクールウォーズ」くらいしか自分は知らない。

1995年の世界杯と言えば、自分が大学2回生の時で、タイムリーに観ていた大会だけに、感慨が
ないでもない。
それまで海外のラグビーを見たこともなかったので、プレーのすごさに驚きまくっていた。
日本代表が145対17と言うものすごい点差でNZ代表に負けた大会でもある。なんか別のスポーツを
観ているような感じがしたのを覚えている。
NZ代表は、まだ大学生だったSO、アンドリュー・マーテンズ、世界最高のFLと呼ばれていた
ジョッシュ・クロンフェルド、怪物WTBジョナ・ロムーなど、漫画みたいなすごい選手がごろごろ
していた。後はSHのグレアム・バショップ、No.8ジェイミー・ジョセフもいた。この二人は後に日本
代表としても活躍している。
前評判ではNZ優勝というのが濃かった。

それまでアパルト・ヘイトを国是とし、そのせいで世界から孤立していた感のあった南アフリカだが、
同時にそこの代表チームも国際試合に出てくることはなかった。出させてもらえなかったのである。
だから正味な話し、南ア代表がどんな強さなのかよく分からなかったらしい。
しかし決勝戦、NZの相手は南アだった。神がかり的な強さで勝ちあがってきた。
その試合は、80分戦って12対12(お互いノートライ)と言う異常にロースコアなまま10分間の
サドンデス・ゲームに入っていた。
南アは、ロムーの「怪走」を押さえ、NZのゲインを許さない。南アFBのユベールと言う選手は、
手首を骨折しながらもフルで出ていた。そして、恐らく焦ったのだろう、NZのおかしたペナルティから
ゴールを狙い、見事にキックを決めて世界杯初出場で初優勝を成し遂げた南アだったのである。

印象的だったのは、勝利を決めた瞬間、南ア選手達はキャプテンのピナールのところに走り寄り、
輪になってひざまずき、何事か言葉を交わしていた風景だった。何かに祈っているようにみえた。
ぴょんぴょんはねて喜ぶのではなく、厳粛な感じさえした。
その時ネルソン・マンデラ大統領は、代表チーム・スプリングボクスのジャージを着ており、その
背番号はキャプテン、白人選手のフランソワ・ピナールの「6」だった。

ところで、本当に死力を尽くして勝ったとき、人はなぜか「祈り」の姿勢になる。以前ジョージ・
フォアマンの話を記事にしたが、45歳で世界ヘビー級チャンプに返り咲いたとき、かれは自分の
コーナーにひざまずき、やはり祈っていた。神職だから当たり前なのかもしれないが、妙に覚えている。

さて、この映画がどんなものなのか、興味がある。ラグビーの試合の描写とか、大統領と
代表チームの関係とか。でもなにより、ラグビー者としては、やっぱりなんか自分の好きな
スポーツが映画になっている、ということがうれしいのである。
観に行ってみようかと思う。

2009年12月28日月曜日

おもひで2

「おまえなあ」
と、セイジさんは言った。
何か言われるのかな、と酔っ払っていた自分は後頭部に残ったわずかな理性でそう思った。
そしてそのときのセイジさんのお顔を、確かに自分は憶えている。とても鮮やかに憶えている。
おまえなあ、の後にセイジさんはなんと仰られたか?

何も言われなかった。
かたむけたグラスを口元に置いたまま、ふと一瞬遠い目になり、少し寂しげに優しく微笑まれた。
ただ、それだけだった。
酔いどれた自分の「今の自分にはラグビーしかない」なんてな大言壮語を、否定も肯定もされなかった。
そして目が覚めると、北星寮の自分の下宿部屋だった。どうやって 帰ってきたかも憶えていない。
二日酔いの頭痛の中、しかし、セイジさんのあの表情だけは印象深く残っていた。
話は、それだけである。

結局自分はセイジさんが何を仰りたかったのか確かめぬまま今に至っている。
要するに、もう永遠にたずねることはできない。何回か機会はあったが、自分はたずねることをしなかった。
 若造が気を吐くあの場面で、大人がたしなめに言うであろう言葉は想像に難くない。しかし、セイジさんは
あえて言わなかった。そして内容を問うことはいまさらナンセンスであると思う。

自分は今、あの時に何も言われなかったセイジさんの優しさを考える。普通なら、ラグビーが全て!
などとと言う「芸大」生徒をたしなめてるか叱るかが妥当な大人の行動である。
しかし、それを飲み込んで口にしなかったセイジさんは恐らく「分かるまでやってみろ」と言ってくれたのだと信じている。分かっておられたのだ、ええ加減にしとけ、というアドヴァイスが鼻息荒いばか者には水をさすことにしかならないことを。
思い出と言うものは美化され昇華され続けていくものである。残ったもののエゴと言っていいものであるかもしれない。
つまり自分のこの思いは誠に自分勝手な解釈であり、セイジさんの本意だったかは皆目分からない。しかし、たしなめられなかった自分は、一時期、本当に思う存分ラグビーに打ち込めた。ある程度自分なりの納得さえもラグビーに対して持つことができた。
そして、表現の制作に帰って来ることができている。
非常に気取った言い方をしてきているが、それができたのは一重にあの時のセイジさんの寂しげな、優しげな笑顔のおかげであると思っているのである。
言葉でよりももっと分かりやすいものを自分に与えてくださった。
その確認も、御礼をも、できずじまいになってしまっている。

あの時セイジさんは何を言いたかったのか、もっと単純な話かもしれない、しかし自分は、あそこで何も言葉のなかったことにセイジさんへの大きな感謝を感じている。そして、同じくらいの後悔も。「セイジさん、何が仰りたかったんですか。」と。

思い出話を終わる。

2009年12月26日土曜日

おもひで

今回は、セイジさんについての思い出を書かせていただこうと思う。
50周年と言うこともあり、ずっと自分の記憶に引っかかっていたこともあり。

あれは自分達の代の首脳陣が引退した年、季節は忘れてしまった。
セイジさんが我々のためにお疲れ様パーティーをしてくれた。現在のフジイさんのギャラリーの近くの
居酒屋だったと思う。キムラ君、ノハラ君、マスイ君、ハマモト、セイジさん、あとマネージャーの
ジュンちゃんとトモちゃんもいたように記憶する。
そういった集まりは自分は好きなので、たいがい酔っ払った。
ふらふらにはならなかったが、すりガラス越しに見るように風景や人物の輪郭がにじんでいるのである。
だから、それが一体何時で、何件目のお店での出来事であったか、甚だあやふやなのである。

順を追って話そう。
お店の一軒目を出て、二軒目、木屋町のどこかで飲んだ。ええあんばいだった。
三軒目に行こうかというときは、メンバーは首脳陣プレーヤーの我々キム・ノハ・ハマの三人と、セイジさん
の四人であった。そして、何軒目かで、そのときカトウさんが働いておられた(よっしゃではない)お店に行こう
とセイジさんがおっしゃられた。
断る理由などない、ついて行くのみである。歩いた。
そしてそのときの風景は、酔ってはいたが今でも忘れない。

先頭を歩くセイジさんが、すれ違う人という人に、もれなくことごとくメンチを切っていかれるのだ。
しかも、まるでわがための道を歩く王者の如く、肩をハスにもせず直進される。びびった。
場所は繰り返すが木屋町のど真ん中である、コワイ人も多い。
我々三人は顔を見合わせた。一人一人、顔に「ヤバイ」と書いてあった。自分達も酔っていたが、セイジさんも
酔ってはったのだ。
この状態で何分歩いたのかは分からないが、やっと最後の店に着いたとき、心底ほっとした。
反面「この人はすごい」と感心しつつ楽しかったりもしたが、自分としては人生で二回目に血中アルコールが
すーっと消えていくのを感じた。

閑話休題。
当時、引退してすぐ、自分はある縁でクラブチームに入ることとなり、試合にも出させてもらっていた。
そういった時期は若さもあり、勢いもあるので、面白いほど体が動く。ほぼ毎日ラグビーをしていた。
なーんにも考えず毎日を過ごしていた。

ラグビーに逃げていた、と言う方が今考えると当てはまるかもしれない。

しかしそういうこともあって、飲んで気が大きくなった自分は上の飲み会で「自分にはラグビーしかない」という
ようなことを言ったのだ。
その時だ。
グラスをかたむけていたセイジさんがふいに「お前なあ」と言われた。

長いので続く。

2009年11月24日火曜日

ゆめまぼろしでもいいと思う

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯は天の赦す所
楽しまずんば是如何

伊達政宗、晩年の五言絶句である。
いろんな解釈があるようだが、自分はこれ、われわれラグビー部OB・OGの気持ち
そのまんまなんでないかと思う。

若い頃は戦いに過ごし、年月は流れ歳をとり、生き長らえてしまったが、そこはまあ
許してもらえるだろ、あとは楽しくやらせてもらおうじゃないか。
なんとはなく、我々が抱える思いに通ずるところはないだろうか。
そりゃあ戦国時代と京芸ラグビー部を比べるなんてのは強引に過ぎるだろうが、しかし、
そこは心情としてである。

現役生の頃の思い出が鮮烈であるだけに、またそれが大きいほどに、卒業してからの時間が
経てばたつほど、懐かしさと言うものが肥大していく。少なくとも自分は、そういった記憶を
相対化して割り切ってしまうのが苦手だ、うまく処理できない。ちょっと気を緩めるとその辺の
感情がだだ漏れになってしまうのだ。
同時にそれがあるからこそ、今でもラグビーと関わり続けていたいと思っていられるということでもある。
そして その懐かしさはほろ苦い。なぜなら、関わるといっても、学生の頃に打ち込んだのと同じ
テンションでラグビーと向き合うことはもうないからである。
真の意味でがむしゃらに走り回っていたあの時期の心境で今も おられたら、とふと考える。
真摯であろうとはいつも思う。しかし、もう同質の気持ちでいることはできないのだ。大体、
そのままで歳を重ねてしまっていたらかえって問題だ。
その変化はもうしょうがないことで、どうしようもなく当たり前のことである。
だが、「しょうがないのだ」と自分に言い聞かせて、気持ちの変化を正当化している自分が
いることにも気づく。まだそんなこと考えてんのかいな、とっくの昔に引退してるくせにやめとけ、と。

こういう思いにとらわれていること自体、けっこう照れくさい。がきんちょの自分と思いっきり
向き合ってしまうからだ。そんなとき、われわれは笑う。たはは、あるいはにやり、といった
感じの種類の笑い方で、しかし目元はうれしげに。
昨日の50周年パーティーで、スクリーンに各時代の写真がスライドで延々流された。
その中で会場を見回すと、そんな笑顔がずらっとならんでいた。自分は、そちらの方がぐっと来たのだ。
みな、いい顔をしておられたと思う。

伊達政宗は、上の詩を詠んだときに、恐らく昨日のわれわれと同じ気分だったのだ。
若い頃の自分を懐かしみつつも二度と戻れない小さな寂しさ、それを感じつつ、きっと
同じように酒を飲んでいたに違いない。そして近くひかえる若者に語ったはずだ、
「今は天下太平の世だが、わしの若い頃はな・・・。」てな風に。
おんなじだ、OBと。

50周年記念パーティー。
自分に限っては、非常に懐かしく、ちびっとほろ苦かった。では楽しくなかったのか。
そんなわけはない、ちょう楽しかった。学生の頃に戻ったかというほどのうきうき感であった。
これだからOBはやめられんなあ、とビール飲みながら思ったわけだ。
そう、楽しまずんば是如何なのである。

だから昔を懐かしむ戦国OB伊達政宗の晩年は、ハッピーだっただろうと思わずにはおれない。

2009年11月10日火曜日

ぴっちぴち

今日、仕事の帰りに書店を冷やかしたのだが、「サッカーマガジン」が目に付いた。
何でも、新しいサッカー日本代表ユニフォームが、いわゆる「ピチジャー」になるのだという。
表紙写真が、くだんのジャージを着た中村俊輔なのですぐに分かると思うが、ぴちぴちだ、確かに。
アディダス製だという。
ラグビーのピチジャーは、「鍛え抜かれたプレーヤーの体の力強いシルエットを演出するため」
という目的でそうなったと言うことを聞いたが、蹴球にもそれが波及してきたか。

そういえば現役のジャージも最近リニューアルのピチジャーで、時代だなあと思うのである。
なかなか趣味的なデザインであるように思うのは自分だけか。
そもそも初お目見えが世界杯(2003)だったように記憶するがどうだったかなあ。そのときは旧タイプと新型入り混じっての試合で、新素材が破れやすく、文字通りぼろぼろになって試合をしていた。
フランス対イングランドでは両チームともナイキの新タイプジャージで、引っぱりゃ破れる、背番号は
べろべろにはがれる、なんとも大味な感じの戦いになっていたのを憶えている。
またぴちぴち度合いもきつく、ほんまに乳首も浮きまくりの両チームだった。

時期を同じくして関西協会は、「サイズの小さいジャージを着たり、袖をテープで止めたり、襟を中に
入れたりして試合に臨むのは怪しからん。」というお達しを各クラブチームに言ってきていた時期で、
ほんでから世界杯でお目見えした新機軸が、サイズはきつきつ、袖はぴったり、襟さえない、というまったく逆指向のTシャツの様なジャージだったので、なんじゃそら!と協会の固陋さに腹を立てる
選手が多かったのも思い出す。

新しいぶどう酒は新しい皮袋へ。あらたな動きは興味を持ってまずはむかえるべきである。
新ジャージで走るサッカー日本代表はどんな見栄えがするものだろう。

2009年10月24日土曜日

肉体は精神の牢獄であるなんつったのはニーチェだったか

かれこれ一ヶ月も記事を書かなんだ。
理由は知らないが記事を書いても投稿できなかったのと、個人的に心が追い詰められる
状態が続いているからだ。主に仕事においてである。

制作もろくにできず、体を動かす時間も削られ、ただただ追い詰められる。なんてなこと
になってくると、非常に心がどんより~としてくる。俺もうこの仕事あかんわという思いが
キングコブラのように頭をもたげてくる。
自分の不手際のせいであるが、しかし、つい先日今までの自分の生き方を全否定されて
しまったところでもあるので、非常に弱っていた。継続的に責められ続け、駄目押しで
つきつけられたことだったので、波状攻撃相乗効果心底にしびびんとささった。
ラグビーのできる余裕と言うものがまったく無かった。
これ以上書いても暗いだけなのでもうよす。

これはもう三線かギターでもかきならして過ごさんとどもならんな、と思っている今日この頃。
ああ楕円球と戯れたし。

2009年9月29日火曜日

こらすごいわ

模範と言うものがある。
「~はこうあるべき。」というゆるぎない基準というべきものといえる。
トップリーグを見ていて本当にそう思うのだが、一言すごいと言うしかない。
リコーブラックラムズのラーカム選手と、三洋電気ワイルドナイツのブラウン選手、両方SOなんだが、すんごい。
なんつうか、プレーがこれでもかというほどにひたむきなんである。
そりゃあセンスとかも耳からこぼれるほどあるんだろうが、そんなことよりも見ていると、彼らのプレー
がひたすら基本動作の延長にちりばめられていることに感動する。もうラグビーの教科書がジャージ着て
走っとるようだ。

相手を釣ってパスをする、その後フォロー。自分のタックルエリアにいる敵に必ずタックルに行き、すぐに起きる。
キックしたら、蹴り返されるのを見越してエリアカバーに向かう。
なによりも、前に一歩ふみ出たタックルを彼らはかましてくれるのだ。
上に書いたことは、言うなれば基本である。これをひたすら冷静に、ハードに繰り返すのだ。
自分はその姿にもう正座でもして応援したくなる。ラグビーというスポーツがどれほど基本への忠実さを
求められるものなのか、この一事でも分かる。
自分は、変に余裕をかましてやってしまっとるなあと改めて反省するのだ。
例えどんな試合でも、自分にできる最大限のパフォーマンスをせんければ、やってる意味が薄れてしまうなあと。
いかん、歳をとったか。
さりながら、ラーカムとブラウン、それぞれ34歳と33歳、くわっ。オレより年上だっ。

がんばろう。

ところで、日本人選手も負けてはいない。上のような意味で、サニックスブルーズのNo8 、西端選手がまたよい。
この人、身長172㎝、96kである。トップリーガーで、しかもNo8だ。タッパだったら自分、ハマモトとおんなじなんである。年齢も同世代。
それが、がんがん走ってボールを動かす。ものすごいフィットネスなんだろうが、自分も頑張らねばと思わせてくれる。

まだまだやれるなあと、ひそかにモチベーションを高める自分なのである。
こんなことで簡単に気持ちの上がる自分は、単純なんだなと頭をかきつつ。

2009年9月15日火曜日

五十周年記念企画会議



13日、日曜日、五十周年記念企画会議が京芸は安井さんの研究室にて行われた。
これで四回目ぐらいだったか。今回のメンバーは、左より
吉田さん・加藤さん・アゲさん・青山さん・安井さん・村上さん、そしてハマモト+子
の総勢7.5人であった。

今回はかなり数字的にも現実味がつき、いよいよ近づいてきたのだなという実感を持った。
人数も、概算では80人を超えるというもので、にぎやかそうで楽しみである。
一つの集団が面子を変えつつも半世紀存続し続けるということは、それだけでそこには歴史が
生まれる。その記念としての集まり、成功させたい。
といっても、自分はというと横から茶々を入れる程度なので、大きいことを言うのもおこがましいのだが。


さて、五十周年記念誌の作成において、今回興味深いことがあったのだが、昔のラグビー
ユニフォームには、ベルトがあった。昔の白黒写真を見ると、皆さんパンツにぎゅっと締めておられる。
ところがこれ、実はベルトではなく(ベルトをしていた人もあったとのことだが)、ネクタイなのだそうだ。
モノクロでは黒に見えてしまうのだが、当時は皆てんてんばらばらに好きなネクタイを締めてくるものだから、
選手達の腰周りは華やかだったらしい。確かにカラフルな風景であったろう。なかなかいいなと思った。
何でも、染色科の女の子がわざわざプレーヤー用のものを作り、プレゼントしてくれたりということもあったのだそう。
ええ話やないか。
いつからネクタイを締める習慣があり、いつからそれが消えたのかは分からないが、個人的にはそういったエピソードは好きである、プレゼントの件も。
恐らくは、各チームのブレザーがあるように、そろいのネクタイもあり、メンバーはジャージとともにそれ
を締めて試合に臨むという風習があったのではないかと思う。
ただいかんせん金のないチームは、各自の自己調達だったはずだ。なんともほほえましい風景ではないか。


そうだ、五十周年記念試合には、自分はそのスタイルでいってみよう。
古ネクタイを腰に締め、クラシック・キョーゲイを気取ってみるのもよいんではなかろか。
あ、なんだか楽しくなってきたぞ。





2009年9月7日月曜日

National Anthem

試合前の国歌斉唱は感動的である。
歌う側の気持ちの高まりもあいまって、すばらしさもいや増すというものだ。
テレビで見ていると、特にホームゲームであった場合、観客も一緒に歌い、スタジアム全体を
どよもす迫力である。
聴いていると、やはりラテン系の国の歌が「今から戦うぜ!」という感じを盛り上げてくれるようで良い。
そしてまた、サッカーや他の種目よりも、ラグビーチームの歌う国歌が「アツい」。
アイルランドなどでは、国家に加えて、戦いの前に歌うための歌、というものがある。
「Ireland Call」だったか。
ちなみに他にグッと来る歌というと、フランス、イタリア、アルゼンチンが自分にとってはそうなのだが、
中でも自分をして目頭を熱くさせてくれたのが、ポルトガルのそれであった。

前回世界杯がポルトガルにとり初の出場だったと記憶するが、選手達の気持ちの高まりが常軌を
逸していたのでよく憶えている。
「世界杯に出られてうれしい!」「オールブラックス(初戦)と試合ができるなんてすげえ!」という気持ちが
びりっびりに伝わってきていたのである。もちろん選手達、青筋を立て、泣きながら歌っていた。
自分の国とわれにプライドを持つさまが自分の心をわしづかみであった。
you tubeで見ても、毎回笑顔とともに震える。

ところで日本の国歌といわれる歌だが、あれは「これが国歌だ」。といわれたものではないのだそうだ、ふーん。
よく国旗とともに取りざたされるが、どうせなら、なんかこう、かっと気持ちを高めるような新曲を作ってはどうかねと思う。
ゆがんだナショナリズムでなく、自分のルーツや生まれ育った場所に対する誇り、わが気持ちを代弁してくれるような熱い歌を。
いろんな用途のいろんなナショナル・ソングがあっても全然おかしくないと自分は思うのだが・・・。

2009年9月3日木曜日

こら苦手晩夏

別の日記でも同じ記事を書いたが、皆さん同じ思いであると思うのでまったくのコピーで載せました。


駅の出口で画像のようなものをもらったのですが、どうしましょう。2980円で遊び放題とか。
歩いているとついこんな風にもらうのを断れない自分です。ティッシュとかね。

こういうお店はあれですね、着飾った姉さん方が隣に座ってお話の相手をしてくれるというものなのでしょう。
しかし自分には、こういうのはトラウマに近いしんどさが伴うのですね、要するに行きたくないです。別にきれいな人もお酒もきらいじゃないのですが。
学生の頃、下宿しとった頃、飲むといえば大学のアトリエとかラグビー部員の下宿部屋で、発泡酒といいちこを痛飲するぐらいのもんだったので、もちろん合コンなんてものは今までしたことが無く、金のかかる店にはほとんど行っておりませんでした。

しかし二十歳もならん頃、実家に帰った折、わが柔道の師に連れられて鳥取県の場末のスナックに入ったことがあります。
尊敬する師は若いお姉さんの手を握って口説きだし、あっけにとられている自分のとなりで自分と同世代の姉さんがいそいそと水割りを作ってくれているという絵・・・。
強くもないくせにピッチの速い自分は、何杯もママさんに水割りを作らせることになっており、ついに耐え切れなくなった自分は、同い年くらいのネエさんに言ってしまいました。

「すいません、僕、手酌でやるんで気にせんといてください。」

汗顔の至り、恥ずかしさも極まれり。
いや、こういう店はこれが全国共通の決まりなんだとは、知らんかったんだ!
ネエさんは、「親切」で自分に水割りをくれていると思っていたのでした。
わきげ、いや若気の至り。
自分を冷ややかに笑うネエさんの顔が今でも思い出され、走って逃げたくなります。
以来、そういったお姉さんお酒店は自分にとっての鬼門なのです。

あと、同じような店で働く同級生と出くわして、ものごっつい気まずさに襲われたり、アイドル崩れの台湾人のおばさまのおも~い話を聞かされたり、この手の飲み屋でいいことのあったためしがないので、自分はいやになってしまいました。
だから自分はこういった店には行きません、つらいのです。
男ばっかりでもいいので、へらへらと飲んでいるのが、自分には合っているかと。

華やかなお姉さん店の前を通ったりするたびに、耳の奥であの台湾人ママの声がフラッシュバックしていけません。
「ワタシ、ニポンにアイドルで来たケド、なーんにもいいことなかったヨ。ぜんぜんだめで、今はこんな田舎のスナックにいて、来年タイワン帰るヨ、ははは~。」

人生!!!

こういう店で働くことが悪いと言っているのではなく、単に自分には合わないというだけのことで。

2009年8月31日月曜日

最近のつらつら

今年も東京で、東のラグビー者、平野ゆり女史と会い、一献かたむけた。
女史と話すと、誰よりも強いラグビーへの愛をひしひしと感じ、背筋ののびる思いがする。
聞いていると、見る側としての思いが新鮮であり、このスポーツの奥深さというものを感じた。
東京芸大のラグビー部とのお付き合いも厚く、機会があれば、我々京都の方にも来て頂きたいと
思う。話をさせていただいた前日には早稲田の監督、石塚武生氏の突然の訃報もあり、
二人でその死を悼んだ。
172センチとは自分とまったく同じ慎重であり、それでもなお日本代表として「タックルマン」
の異名をほしいままにした氏の、その存在は大きいものであったのではないかと思う。残念、
そしてご冥福を。

閑話休題。
またトップリーグが始まる、楽しみである。もちろん日本選手の頑張りも期待大であるが、今年も
来日トップリーガーが気になる。各国現・元代表やスーパー14プレイヤーがうじゃうじゃいる
ではないか。中でもやっぱり元ワラビーズのラーカムのプレーが見られるのがうれしい。
リコーに所属しているが、去年このチームはトップリーグ外であったため試合が見られなかったのだ。190センチという身長ながらやわらかい独特の走りや、ここぞのところでのカットインは、見るものをうならせる。
この選手、ぎりぎりのところまで相手をひきつけてのパスが身上であったので、よく体を痛めていたが、ディフェンス側はさぞやりにくかったろう。タックルに行ってもボールを生かされ、かと言って
捨てると穴を突かれる。いずれにしろボールをデッドにできないのだ。これは守る側にうっとうしい
の一言である。どんな走りで楽しませてくれるかわくわくする。
機会があれば花園に行って観戦したいなあ。

ところで、来日外人選手は、よく「日本に来てすべてが変わった」というようなコメントをしてくれて
うれしいのだが、じゃ、どこが?というのがある。少なくとも二選手においては、あ、なるほど、
というのがあったのだ。
NECグリーンロケッツ、元南ア代表・ヤコー・ファン・デル・ウェストハウゼン選手と、
今年から近鉄(だったかな?)、NZ代表・レオン・マクドナルド選手だ。
彼らがコメントに出すほど変わった所とは。
増えとったのだ。何が?髪が。

自分の気のせいか、来日当初とシーズン終盤で、明らかに増えていた。鈍感な自分が
テレビの画面を見ても、ん?と気づくほどに。
とにかく二選手とも「ふさふさ」になっとった。
頭頂部がきているなあと思っていたのだが、今はそのかけらも無い。最新号のラグビーマガジンを
見たのだが、間違いない。個人的には驚くほどの変化だったぞ。
ここであえて言うなら自分はあげつらって述べているつもりはなく、むしろ喜ばしく思っている。
だっていずれにしろ彼らに髪を増やそうという前向きな気持ちがあったということだし、もしそれが
日本に来るまでできなかったのなら、これほどの変化は無いのではないか。悩みが消えて髪が
生えちゃったよなんてなことなら、さらにうれしいではないか。
いずれにせよ、かれらの、グラウンド風になびく髪を見るたび、自分は少し幸せな気分になるのである。

2009年8月14日金曜日

戦うだけの価値を

個展が終わり、一息つけたので前回の続きを。

45歳にしてカムバックしたフォアマンは、無謀としか思えないヘビー級チャンプへ挑戦した。
タイトルを競う相手は。
マイケル・モーラーという「23歳」・バリバリの選手である。下手をすれば殺されるんじゃ
なかろうかと周囲ではうわさしあった。。
何を考えとんねんということだが、その試合のために、フォアマンはたるんだ体を逆三角に
鍛えなおしてきたのだ。
45歳にしてだ。
ハンパなことではない、なぜそこまでするのか。
かつて追い詰めながら、モハメド・アリに8R・KOで負け、ばらばらにされたあのときの自分を
取り戻すためだったと沢木耕太郎は言うが。
試合の前にアリとフォアマンが話す機会があり、。 アリは「祈っているよ」と言ったいう。
そしてインタビュアーに試合の行方を尋ねられ、彼は「Old man」とだけつぶやいた。

結果は、奇跡とも言えるKOでジョージ・フォアマンが勝つのである。you tube 見てみると、その
試合があった。勝ったフォアマンは、コーナーにひざまづき、天を仰いだ。

理由はどうであれ、彼には全盛をはるかに過ぎた体に鞭打って戦うだけの理由が、確かにあった
はずなのだと思う。おそらく、「このままでは終われない」というものが。
同時に、理由さえあれば、やれるのだとも思った。
自分とジョージ・フォアマンを重ねるなんておこがましい真似はできないが、ラグビーの試合を
するとき、自分はいつもこのエピソードを思い出す。
言い方を変えれば、ええ歳こいたおやじが 未練がましく汗を流し、ぜいぜい言いながら
年下とやり合って勝つのだ。自分はそれが、かっこよく思えてしゃあない。

われわれに十分当てはめてよい。
ラグビーをやる理由としてフォアマンほど強いものがあるわけではもちろんない。
でも、なにやらマネしたくなる魅力があり、忘れられないのである。

2009年8月5日水曜日

南ア・豪州・NZ三カ国対抗戦

南ア・豪州・NZ三カ国対抗戦、トライネーションズを見ている。
今日は南ア対NZだった。
けが人が多いNZに対して、南アのゲームメイクが光った。
南アは以前、いやさ今もだが、解説者氏をして「かいなぢから(腕力)」と表現せしめるパワーのチームだった。
戦略「パワーを生かしたFW戦」、戦術「ごりごり」と言っても過言でないスタイルだったので、
見ていて驚くとともに笑ってしまうくらいのものがあった。
それが最近クールである。
以前世界杯で優勝して時そうだったように、言い方はよろしくないが、賢い試合を展開するようになっている。が、今日の試合は荒れあれだった。
両チームともにミスの連続、ボールが止まる。
NZもその展開力が発揮されず、ゲームメイクで勝ったとしても、南アもさんざんだった。
雨のせいとは言えんなあという内容だった。南アの勝ちだった。
そして自分はというと、居眠りしてしまった。ゲームを見ながら。試合がつまらんかったからか、
それともトシのせいか?うーむ。

ぜんっぜん話が変わるが、自分は往生際が悪いのがすきである。
老醜をさらすのもむしろ、それすばらしいですねだ。
役に立たなくなっても参加して迷惑かけたるぞという思いがある。ラグビーでね。
何でそんなことを思うようになってしかも脳に染み付いているのかというと、これにははっきり理由がある。

ジョージ・フォアマンを見たからだ、テレビで。
えらい前なのだが、NHKで彼のドキュメントをやっていて、偶然それを録画した。
作家・沢木耕太郎が、当時45歳にしてヘビー級に舞い戻ったジョージ・フォアマンを追いかけドキュメントする姿をドキュメントする、なんてな内容だった。
ジョージ・フォアマンを知らない人に少し説明を。

元ボクシング世界ヘビー級チャンプであり、かのモハメド・アリことカシアス・クレイと同世代である。
そして紆余曲折の後、アフリカはコンゴ、キンシャサでアリと戦い、追い詰めながらも8ラウンドKOで負ける。
引退後、牧師となり、以来神の道を説く人だった。何でボクサーからいきなり神父にという部分のエピソードも面白いのだが、今はおく。
そんな人が45歳にしてカムバックして、20年ぶりにタイトルを狙うのだ。
本人はその理由を「M・O・N・E・Y」と言っていた。が、フォアマンのジムには、大きなモハメド・アリの肖像がかけられていた。
沢木は「ばらばらになった自我を取り戻そうともがいている」と言っていた。

長くなりそうなので、次回につづくっ。

2009年7月24日金曜日

私事ながら、告知

まことに私事ながら。


 東京、銀座にて個展いたします。

濱本 裕介 個展
2009年8月3日(月)~8日(土)
午前11時~7時(最終日4時まで)
東京都中央区銀座6-4-8曽根ビル3F
中和ギャラリー
TEL 03-3575-7620

自分は6日(木)~8日(土)に在廊する予定です。
よろしければ皆さん、ぜひおいでください。

2009年7月21日火曜日

苦悩・梅雨・カビ生えた日々

一身上の都合により、ブログの更新を怠ってしまった。
この一月、かなりへこんでいた。

自分は教師を生業にしているが、担任もしている。自分が、である。
自分の人間性をご存知の方ならお分かりかと思うが、基本的に自分は「おもむき」がない。
今の言葉で言うならば、「KY」とでも言えばよいのだろうか。
どちらかといえば「おもむきがない」という言葉の方がすきなのだが。そんなことは
どっちゃーでもよい。
自覚はしている。人付き合いが苦手である。

そんな人間が教師をしている。ラグビーもやっている。

自分がこんな仕事やってていいもんかと良く考える。
そりゃあ嫌われもするし好かれもしよう、教師はそんなものだ。別に好かれるために
やってるわけじゃないのだ。しかし。
生徒の家に行って二時間正座をさせられ謝り続けるなんて貴重な体験をした日にゃあ、
どうだ。へこみますよねみなさん。
おれこの仕事やってていいのかなんて、考えない方がどうかしているだろう。
考えた。自分が教師に向いているかではなく、自分と付き合うことで、いらん被害をこうむる
生徒が出るのじゃないかという部分で。実際出たし。自分自身を鏡に映し、それも、
向き合いたくはない自信の暗部を、穴の開くほど見つめ続けることを強いられるなんてな
つらい一ヶ月であったことよ。

人と付き合うのが苦手で空気が読めないならば、開き直って割り切ってしまえば良い話
なのかもしれないが、中途半端な良心を発揮してしまうもので、それがしんどい。
いまだ割り切れん。

そんな時に日記を書くとどこまでもダークになるので、また、そういった状態の時には、
コンピュータに向かう気さえも起こらず、放置をかましてしまった。

OB戦があったそうですね。行けまへんでした。
引きこもっていたわけではなく、弟が福島県で結婚式を挙げやがったので、
3連休は移動と飲酒に終始した。
福島の人たちはよく飲む。楽しい酒である。東北言葉も新鮮で、よいものであった。

3つ下の弟とは一時期、京芸の近くの北星寮と言う下宿で同居していた。
知っている人ならわかるが、最近建て替えたという噂の北星寮の前身は、マンガに出てきそうな
大家さん手作りの違法建築であり、味わい深い所だった(家賃も一万円台)。そんな中で兄弟が
同居なんてことをすると衝突しないわけが無い。兄としての自分の器の小ささもあったが、
大喧嘩した。
そしてなぜかもともとの住人なはずの、兄貴たる自分の方が下宿を飛び出し、半年ほど
学校のアトリエで寝起きした。食事と着替え、風呂だけ下宿に帰った。
まだ警備も厳しくなかったので使用申請も出さず、アトリエに畳を引き、毛布をかけて寝ていた。
しかし学校で寝ているくせに、授業には遅刻した。
後に和解はしたものの、何をしてんねんおれたちはと、暗いアトリエの天井を眺めていた
もんである。

あー、今でもそうだが、あほだったことよなあ、許せ弟よ、なんつって考えながら、
新郎の弟とその新婦を見ていた。
そうしていると、ふわ~んと酔いの回る頭で、まあいいかとなんだか楽になった。

2009年6月18日木曜日

杵柄のチカラ

今回の谷口青児杯、自分はNO8で出た。
試合後半、SHはフジイ君であったわけだが、これもOBチームの楽しさ、というものを感じた。
現役陣地ゴール前でのOBスクラムで、組む前にフジイ君が自分にぼそっと言った。
「 よこ、開くから。」
自分は「OK。」とだけ答えた。
さあ、この一言づつの会話の中に含まれていた意味合いとはこうだ。
「ボールを持って横に流れて相手バックローのディフェンスを釣るから、付いてきてほしい。」
「じゃあ、ボールが内に返されるっちゅうことだな、走りこむことにしよう、OK。」

要するにサイドアタックの打ち合わせだっただけだが、ほんまに一言ですんだ。
後で思い返してみると、不思議である。意思の疎通というものには、必ずしも言葉というのは
必要ないのだ。
そしてふたを開いてみれば、イメージしたとおりにことが運んだ。走りこんできた自分に、
フジイ君はここしかないというタイミングと位置でパスを返してくれたのである。会心のアタック
になった。思わず、走りながら「さっすが!」と叫んでしまった。
彼はセンスのいいSHだと思っていたが、確か一年以上ぶりのプレーではなかったかと思うのだが、
精度に関して、衰えてなかったことには感心したもんである。

昔取った杵柄、という言葉があるが、現役時代、まさに自分はNO8であり、フジイ君はSHだった。
そこであわせていた感覚というものが、未だに衰えず残っているのである。こういう実感は
貴重だし、甚だ興味深い。無意識のうちに昔の呼吸、パスの位置、走りこむコースのイメージが
戻っていたのである。人間のそういった能力というものはいったい何なのだろうと思わずには
おられない。

そういった思いを抱きつつ試合を楽しむことができた。

2009年6月12日金曜日

思うことなどwithおやじの想念

先日仕事帰りに駅に降り立ち、駅舎から出てくると、バスターミナルのすぐそばの
ベンチで、高校生男女が思いっきり抱き合って愛を語らっていた。
すぐ横を普通に人々が行きかう、帰宅ラッシュたけなわの時間にである。
何で高校生かというと、制服のまんまやったからだ。
帰って来て唐突にその風景だったもんで、しばし頭がくらくらした。

アツい、アツいなお前ら。二人の世界には公も私もあったもんじゃなく、たとえ
制服のままでも、ラテンなラヴをフィーバーできとるわけやな!
若いな、と思った。
そして思った。
「おまえらどうせすぐ別れるんだから、今のうちにがんばっとけよ。」
と。

やっかみではなく、ふと湧いてきた思いだった。う~ん、枯れとるな俺。
むしろ心の中で拍手を送り、彼らを福音とともに祝福してやればよいものを。
自分の心の狭さ、そして、ねたみ・つらみ・うらみ・そねみを思い知ったことだった。

閑話休題。
試合後、ワカさんと話していた。
「クラブチームの試合より、現役との試合の方が痛いし、しんどい。」
ことについて。
ワカさんいわく、「現役にディフェンスに行くと、骨が刺さって痛いねん。」
自分いわく、「遠慮がないから、思いっきりカドで当たってくるっすよね。」
ワカさん「自分も痛いっちゅうことを気にせえへんからな。」
自分「OB戦の方が怪我率高いっすね。」

クラブチームの試合、つまり経験者同士で戦うと、お互い当たりの姿勢や
感覚に共通認識が出来ており、皆うまいのであまり痛くないし、怪我もさほど多くない。
そして試合の流れなど、ある程度セオリーが出来ており、皆これも上手いので
思ったより走る量も少なくてすむのだ。

これが対現役のOB戦になると、突拍子も無い動きをしてくれるので、
こちらの意表を突き、したがってそれに対応する頭と身体を使わねばならず、
かなり疲れるのである。
話していて、あ、やっぱりそうなんですかと合点がいった。そう感じているのは
自分だけかなーと思っていたからである。
そして、局面で予想の付かない動きをしてくれる分、現役相手の試合の方が
面白かったりするのである。
それって現役チームの強みと呼んでもよいのではなかろうか。へんに慣れきってないので、
そういったところが、京芸らしさ、なのではなかろうかとも思った。

また、しんどい、こんな危ないことやるもんちゃうで、なんていつもぼやきながらも、
試合ではしっかりパフォーマンスを欠かさないワカさんを見るに、京芸OBらしさというのも、
こういう所だなあなんて自分は思ってもいるのである。

読み返してみると、今回の内容は前回のそれとえらい矛盾しているように思われる。
ま、いい。

2009年6月9日火曜日

思うことなど

谷口青児杯を戦った。足を運んでくださったOB・OG皆さん、ならびに
ご挨拶いただいたセイジさんの奥様に、キックオフをつとめていただいたご子息、
まことにありがとうございました。
改めて、セイジさんのご冥福を お祈り申し上げます。

くわえてこの日の試合は、現役四回生引退試合もかねていた。おつかれさまでした
四回生諸君。これからもよろしくお願いします。
試合の細かい内容はOB通信に載るであろうから、ここでは個人的に感じたことを
何回かに分けて書いてみようと思う。思うところ多き試合だった。

さて。
自分は、タックルがこわい。 いつも怪我するんではと不安に襲われる。鎖骨なんか
いってもたら痛いだろうなあなんておびえている。
でも、いかなしゃあない。
理科で習った記憶であるが、物体の運動エネルギーは、その物体の重さに比例し
運動速度の「二乗」に比例する。二乗である。時速5㎞(概ね歩く速さ)が、1.5倍の
時速7.5㎞(速歩)になっただけで、運動エネルギーが2.25倍になるのだ。つまり衝撃が
倍以上になってしまうのである。
こちらに向かってくる物体が体格の似た人間であったなら、タックラーであるこちらは
それと相殺できる スピードで当たっていかないと止められない。つまり、走ってくる
相手のスピードが速ければ速いほど、こちらも速度を上げてぶつからないといけない
ということなのだ。その間、衝撃は二乗倍づつ増えていくわけで、意味するところはと言うと
「痛い」。
極端な例を言う。
走る車を真正面から止められる人がいたとする。ある日乗用車を止めた。次に走ってきたのは、
レーシングカーである。そしてこの人はこれを止めるため、「さっきよりも速く走り勢いをつけて」
レーシングカーに体を当てにいき、止めねばならないのだ。
こわいに決まっている。

しかしタックラーは知っている。たいていの場合、怪我をするのは受けに回った時であり、すなわち
重心が高くなった状態で相手に当たられる時なのだ。
だからどっちか選べと言われれば、衝撃は大きくとも怪我をしない、相手に当たりに行くタックルを
するほうがいいのだ。感覚的にも、実はその方が痛くない。

だから自分は結構怖がりながらタックルをしている。そして、恐怖心を消すために、毎回試合の
前半の早い時期に、ナイスタックルを一回決めておきたいのだ。そうするとこわくなくなるから。
なぜか今回の試合で思い出したのである。

2009年6月5日金曜日

OBのみなさまへ。K.O.は14時。

OBのホームページやブログでキックオフが13時となっていましたが、
6月7日の日曜日は14時キックオフです。

ころころ変わってすいません、14時キックオフです。

何卒どうぞ宜しくおねがいいたします。

2009年6月3日水曜日

参加を願おう6月7日

先日書いたとおり京芸グラウンドにて、6月7日、13時キックオフでOB戦が行われる。
セイジさん追悼のため、そして現四回生の引退試合として。
この二つの意味を持つものとして、普段よりも強く、OBの皆さんの
参加をお願いしたいと思います。
先日の精華戦を見るに、現役は気合の入ったプレーをしてくれていた。
きっと良い試合が出来るものと思っている。
上記二つの意味を十分満たしてくれる試合になるだろう。

13時集合ということで、ぜひ奮ってご参加いただけるよう、重ねて
お願いいたします。

ご連絡)キックオフが14時に変更になりました。ご注意ください。

2009年5月31日日曜日

ウィスキーがおいしくてね



久々に気に入っているバーに行ってみた。
自分の住む茨木市、JR茨木の近くであり、自分の家にも近い
中が狭くて、カウンターが六席。ちゃぶ台のようなボックス席が一つ。
十人も客が入らない。
恐らく昔のスナックをそのまま使っている様子で、時代を感じさせるたたずまいがよい。
 以前の芸祭で出ていた飲み屋に近い雰囲気と言えばわかりよいだろうか。
 一度、引越しを手伝ってくれたお礼に、ウエスギ君とウチヤマ君を連れて行って
しこたま飲んだことがあるぐらいで、後は一人で行く。
ここのマスターが同世代で、またゆるい人で居心地がよい。そして、お兄さんが京芸の
サッカー部のOBさんである。われわれでいうと、モゲさんと同じ回生の人だそうだ。

以前は自分は完全な麦酒党 で、きつい酒はだめだったのだが、歳をとったせいか、
ウィスキーが飲めるようになって、また、好きになった。
そして好みの種類も置いているので、なおさら足が向くようになってしまった。
あ、おいしいと感じるようになっている。
そんなんで強い酒に対する過信が生じ、アンドウ君たちのアトリエ開きのパーティーに行って
焼酎を飲んだら、つぶれてしまった。気がついたら寝とった。さっきまで外国人に説教をしていた
ような気がしていたのだが。
そしてお決まり、地獄を見た。どうやら自分は一人でちびちび飲んでいたほうがよいようである。

なにはあれ、バー「ブロンコ」 、茨木市で終電を無くしたら足を向けられるとよろしいかと。

2009年5月24日日曜日

6月7日、OB戦



思えらくの言わずもがな、四芸は大事なイベントである。
自分に限定していえば、ラグビーによって得た効能が、大げさでなく、人格矯正および更生・人生の路線変更・思考方法の多重化(せいぜい同時に二通り程度だが)および柔軟化などなど、あたかも体にいい温泉みたいにたくさんあったので、かなりの意義があった。
なだけに、クラブ四年間のひとまずの集大成である四芸というのは、「でかかった」。

だから、今回の、前代未聞の四芸中止という事態が現役にもたらしたショックというのは、推して知るべし、だろう。だってお分かりのように、我々が学生であった頃そうであったように、四芸のためにすべての準備をしてきたのだ。
チーフマネージャー・サヤさんの言では、みな落ち着いているとのことであるが。

そういったわけで、来たる6月7日(日)、セイジさんの追悼記念試合を、
現役首脳陣の引退OB戦とするとのことである。ご参加お願いいたします。

個人的には、四芸のためにため込んでいた気持ちを、現役には出してもらいたい。
気合の入った動きを心から期待する。
それはOBとしてどうこう思うということではなく、一プレーヤーとして、たとえそれがどんなチームであろうと、気合の入った相手と戦うことはとても楽しいからだ。そして、
必ずそれはよい試合になるからだ。

そんな相手を前にしたとき、自分は血が沸く。40分ハーフもあっという間に過ぎてしまう。
そういった試合はなかなかできないものだが、いつもそれを望んでいる自分がいる。

いい試合ができたからといって四芸の無念が晴れるということでもなかろうが、
目の色を変えて、殺気さえ込めてこちらに迫ってきてくれる現役チームの姿を期待している。
セイジさんのご冥福祈念のため、四回生の引退を飾るため、自分は全力で試合に臨むつもりだ。

いい試合をしましょう。

2009年5月19日火曜日

てめえこのヴァイラス野郎!

病原菌というのは、自分の不十分な知識では、それ自体では増えることができない。
何か適当な器にに取り付いてそれを利用しないと増殖ができないのである。
つまり単細胞生物とさえ呼ぶことのかなわぬ哀れな存在なのだ。
それだけで見れば遺伝子という情報の塊なだけのもの。言ってみれば、ただのフロッピーディスク
なんである。
読取装置のない限りそれはただのモノなんであるが、形に合うプラグの付いたコンピュータに
接触したとたん、
無限にそのコピーを作り出し、増殖するのである。またそのコピーは、そこだけ生物らしく、
「適応」をする。
例えば「A」という病原菌の特効薬があると、最初はその薬の力でほとんどAは全滅する。
しかし、かろうじて生き残ったものは、数世代で薬に対する耐性を得て、効かなくなる。
ついにはその薬を食わないと死んでしまうなんていうなんていう特性を持つ「A´」なんてのが、
えげつないことに出てくるのだ。A´ を殺すには、まったく別の特効薬が必要となる。

毒蛇使いの一族は、多少コブラに咬まれてもへっちゃらなのだという。
「象をも倒す」コブラ毒に、長き世代を重ねることで耐性を作ったのだ、人間が。

それがインフルエンザと人間のいたちごっこの構図であるのだが。
ついに四芸にはでその魔手を伸ばしたか。
四芸が中止になった。
この腹立たしさはなんだ。
自然にはたかが人間、勝てん。しかし、悔しいではないか。
「何が中止か!病気の一つや二つ発症したところで、学生ならガマンしてラグビーせんか!!
フィールドで死んでこそまことのラガーマンだと自分は思いますが!!」

うそです!!

いかんともしがたいな、これは。大きな自然の流れの中では、われわれは大河の中に浮かぶ
楕円球、どうしようもないとしか言いようがない。
浮くも沈むも流れのままに、なのだ。
しかし逆境の中にあるとても、現役ボーイズアンドガールズよ、その気持ちをくすぶらせるな。
それら気持ちをぶつける場所は必ずあるぞ。
花に嵐の言葉もあるぞ、さよならだけが人生だ。とするなら、さよならする前に
今夜ここでの一盛り、もあったものだ。
それについては二、三時間でも語ることもできようが、中略し、マイナスはプラスへの
強力なばねに なる。
ここからが真価の見せ所だと自分は思うが、どうかね現役諸君。

ガッデムこのヴァイラスメーン!がんばれ現役!病原菌に負けるな。

なにやら妙に腹立たしいOBは思うのだよ。

なんでこないに残念かっちゅうとやな

四芸に参加できずに残念だというのはこの前書いたが、その理由を記しておこう。
つい女々しく参加不可能をなげいてしまっとるがな。

東京で顔を合わせたい人たちがいるのも確か。
なつかしい面々と一年に一度会える同窓会的な場でもあることよ。
それに加えて自分は去年の思い出が鮮やかだから、なお残念な気持ちが強い。

去年の金沢四芸は、ヤスイさんのキャンピングカーに乗せてもらって行った。それがごっつい楽しかったのだ。
今までの四芸で、ロードムービー的に道程を楽しむことができたのなんか初めてだったので、非常に新鮮だった。

いやー、キャンピングカーって素敵だ。
余裕を持って出発し、あせることなく目的地に向かうまでの、その旅を味わうことができるこの上ないツールなんだなあとしみじみ感じた。
つらつらと会話を楽しみつつ、テレビがあってラグビーの試合まで流してくれてたりして、自分は心の底から心がなごんだものである。
パーキングエリアで一夜を明かし、朝、日本海を見晴るかす断崖でヤスイさん、イガワくん、自分の男三人で食べた握り飯とサンドウィッチのうまかったことよ。
その思い出にプラスして四芸なのだから、記憶に焼きつかないはずがあろうか、いやない。

ハンパなく忘れがたい。

自分は今車は持っていないし、必要を感じない。しかし、もし手に入れる機会があるとするなら、絶対にキャンピングカーである。
あんな楽しい乗り物はちょっと他にないと思うのである。

そんな風にして去年の記憶がめちゃめちゃ良いので、くわあ、今年行けないのが百倍残念なのである。来年は絶対参加して、旅も試合も楽しむのだ。

四芸参加のOBのみなさん、けがの無いようお楽しみください。

2009年5月17日日曜日

四芸に行かれへん


四芸に行けない。情けない。
こういうときもあるのだと思うしかないのだが、こういうときに仕事がいやになってしまう。
子どもな自分である。

五十年誌についての集まりが学校であり、主に広告料をもらわんければならないことなどを
話した。
たくさんもらえればそれだけ助かるし、自分もすまいの茨木市の中で探してみようと思っている。
もし広告について心当たりのある方おありならば、OB事務局までご一報いただければ幸いです。

写真は今年の四芸Tシャツ。自分はピンクを買った。
フォトショップでもう少し見やすくしてみようとやってみたのだが、慣れない事はするもんじゃない、
変になってしまった。

お引越しアンドルールのこと

シラユこと、OGシラハタさんのお力で、ブログの引越しと相成った。
自分は書き散らすばっかりで何にもしないのが大変恐縮である。
ありがとうございます、シラユ殿。

さて、引越し一発目の記事は、いきなりルール変更のことについてである。
5月13日のIRB理事会においての決定であるとのこと。

「モールの引き倒しが禁止になった。」
まったくこのラグビーっちゅうのは、なんたら流動性の高い競技であろうか。

引き倒せるから押し込まれないことで、ディフェンスがポイントに入らなくなり、攻撃側にすると
人数が余らないからであるという。
攻撃するスペースができないことで展開が悪くなるではないかという声が高かったらしい。
大きなものはそれだけで、他にはおおむね変化は少ない。
しかしこの、昨日の黒が今日の白という状態、きらいではないのだが、感覚を修正するのに
しばらく苦労するのである。
また、戦い方の考えを変えろっちゅうわけやね。

2009年5月14日木曜日

Back to the Neil Back

イングランド代表に、かつてニール・バックという選手がいた。
代表在籍時期は90年代中盤から後半だったか。

身長は、アングロ・サクソン系にしては、またそのころから大型化の一途をたどりだしたラグビー界においては珍しく、178センチであるポジションは、フランカー。
いまでも170センチ台の選手はいるにはいる。ジョージ・グレーガン(豪)、ストリンガー(アイルランド)、シェ−ン・ウィリアムス(ウェールズ)。

彼らはみな172センチである。
これは自分とまったく同じ身長であり、体重もそんなに変わらない。
だが、彼らは共通してバックス、である。

かのニールバックに特筆すべきは、178センチの身長で、FWの、フランカーであったということだ。現在各国の代表選手といえば、190センチ超なんてざらである。

190センチの人と自分が並ぶと、「見上げる」。
はっきり言って、でかい。

それに筋肉をつけて結構なスピードで走り回るのが代表級なのであって、先日の日記に生モートロックを見たと書いたが、彼で192センチ、遠目に見ても、明らかにスケールが違うのだ。

しかも、物理的法則として、体が大きくなるのに比例して筋力が増すのである。
これはどうしようもない。小さい自分がやっとこさつけたパワーも、体が大きいという理由だけで楽に出せてしまうなんて事になるのだ。
不公平という言葉はこの場合当たるまい。しょうがないのだ。

ところがニール選手は、その体格差を乗り越えて激しいプレーを繰り返していた。スクラムの映像なんか見ていると、クマのようなFWたちの中でひときわ小さい。すげーなと思うと同時に。非常に短絡だと自分でも今にして思うのだが。
よし、自分もなんつって考えていた。
ニール・バックがこんだけできているのだから、自分だって。
などと、明確に比較の仕方を間違えているイメージを持ってしまっていたのである。
だってこの選手、タッパは確かにないが、横から見ると体の厚みは自分の倍はあった。腕なんて樫の木の丸太のように強そうである。しかし、小さい自分にとって励みになったのは確かだったのだ。

現在小さいFWというと、同じフランカーで豪州代表ジョージスミス、フィル・ウォーが有名だが、彼らはぎりぎり180センチ。その厚みはまた着ぐるみちゃうかと思うような人間離れしたものなのだが、ニール・バックが引退してから、170センチ台の代表バックローをいまだ見たことがない。

自分は今でも、ニール・バックだってがんばってたじゃないか!
とラグビー以外でも自分を励ますことが多々ある。

そしてイングランド代表と聞くと、ジョニー・ウィルキンソンでも、ローレンス・ダラーリオでもなく、思い出すのは、ニール・バックなのである。

2009年5月11日月曜日

冷や水ってなになに?


OBになると足も軽くなり、引退してから初めて花園に行ったことを憶えている。
そうすると面白いもので、現役のときよりも刺激的なことに出会うものである。

ある日花園に行くと、豪州代表スターリング・モートロックがいた。
妙に骨格のスケールが大きい外人がおるなと思ったらその人だった。
周囲はまったく気づいていておらない。

飛び上がりそうになって話しかけ、握手と写真を頼んだ。
「Sure.」と紳士的に応対してくれた。


閑話休題。

先日の新歓コンパの折、ハガワ君と話した。
「OBはどのへんまで現役のパーティーに顔を出していいものか」
ほほう、なるほど。正直なところ、自分はそんなことちーとも気にしとらなんだ。
自分のスタンスは、お酒が飲めて楽しく過ごせる場には足を運ぶぜ、である。
現役の1回生の頃からそれは変わらない。それにくわえて、自分だけかもしれないが、大学に入ると歳の差というものがあまり関係なく思えてしまい、一回の頃から専攻に関係なく学部をはじめ院生とか卒業生とかの、いろんな飲み会に気軽にお呼ばれしていた。
単に、お酒が飲みたかったのである。何か意味のある会話をしたかなんてまったく記憶していない。
そのノリのまま今まで来ていたので、言われてみて、あ、そうか〜とはじめて考えてみたくらいなのである。

年寄りの冷や水、というが、どのあたりから冷えひえになるのだろう。

あのおっさん、また来とるで、みたいなことには自分もなりたくないのだが、そんな邪魔にもなってないだろうみたいなことを言うと、ハガワ君、
いや、ハマーンは毎回新歓コンパにはいつも話をのたまっていてときた。しかも結構な回数にわたり。
ぜーんぜん記憶にない。酔っ払っていい気になってしゃべっておったのだ。  わちゃあ。

たった今、冷蔵庫から出しました。きんきんの冷えひえな年寄りです。
冷や水もここに極まっていたんである。あー恥ずかしい。これは自分でもショックだ、ちと控えよう。
まあ現役にしてみれば、見られたもんじゃないわな、OBの醜態なんて。ちょっと虚無に襲われた。
しかしよう思い出してみれば、セイジさんだって、かなり後まで現役生だった自分達のコンパに来てくださっていたではないか。あれはうれしかったぞ。
意味合いが全然違うかもしれないのだが、これでいいのではなかろか。
変に気を使って現役と距離を作ってしまうこともあるまい。
結論。
邪魔にならないよう、できるだけ参加させてくだちゃい。
年寄りのぬる水くらいで堪忍したってもらえるとうれしいでちゅ。

とりあえず、もう来んなと言われるまでは参加してみようかと思うのだけど、どうかね?

それが冷や水やーゆうことか。そうか。

2009年4月29日水曜日

マッドドッグ・リターンズ

えらい間が開いてしまった。いかん。
イヤーどーも仕事が忙しくて、なんて言い訳はしない。怠慢をかましてしまった。

ハマーン、というニックネームをいただいている自分だが、最近。
「パパーンになりましたね。」
なんてなふうにいわれる。
実際所帯持ちではあるし、的を得たことよとも思う。だがしかし、どうもこの呼び名の中には、「守りに入ってる」というニュアンスもあるらしい。ラグビーのプレースタイルで特にそうらしく。

こなくそ、と思う。

確かにまあ若いとはいえないから以前のようながむしゃらさは出せていないかもしれない。がつがつ当たっていくのを意識的に避けているのも事実だ。
あ、認めてしまっている。
さらにあがいて言うなら、自分のような体格では、当たるよりも、スペースに走りこんでからませつつボールを出すなんてスタイルのほうがやりやすいと思うからだ。
自分より大きな人が相手の場合は特に。
しかし、変な守りがにじみ出ているのも事実なのであろう。モチベーションにしてもかつてとは明らかにありようが違うのはわかっている。

しかし、パパーンなんつって呼ばれちまった日にゃあ、やったろうやないかいと思うわけだ。あー単純。
まあ、奮起するきっかけも欲しかったし、丁度よい。
相手を打ち倒し、その心臓をえぐり出して太陽の神ティナトゥに捧げてやるくらいな血まみれの気持ちで。また魔界のプリンス、アシュラマンのマスク、アシュラ面・怒り、あるいは冷血のように。
パパーンでもなく、ハマーンでもなく、「破マーン」として!フィールドを地獄と化してやるなんて思って新歓試合に望んでみたが。

「ハマーン、寝てプレーせんといてください!」と現役プレーヤーに怒られてしまった。
すんません、出直してきます。

2009年3月31日火曜日

現役の練習

先日、仕事を休んで現役の練習に行った。
そしたらいきなり足首をグネり、往生した。
久々に自分の関節がぐりりっと音を立てるのを感じた。
結構痛かったのだが、いきなり来ていきなり怪我して帰るなんてかっこわるい!とやせがまんし、最後まで走った。
家に帰ると案の定腫れており、暗澹とした気分になったものであるが、翌一日足を引きずって歩いただけで、そのまた翌日からは大丈夫になっていった。
幸いにして、現在はだいぶいい。
う〜ん、やっぱり体を当てる練習は普段からやっていないと体が忘れてしまうものなのだろう、ちと悔しかったのである。
皆さんも怪我にはぜひぜひご注意を。

今日はこれだけ、ほんまに徒然の惰性で書いてしまった。

2009年3月13日金曜日

走らんかな

ネタが豊富になってきたので間をおかず書いておこう。

つい昨日の夜になるが、クラブチーム、ディスカバリーの練習に行ってきた。おなじみ吉祥院運動公園、マツダ君とテツオ君もいた。
タッチフットをたっぷり一時間ほど、いやあやっぱり一人で走るのとは違うもんだ、何せ楽しい。

走るのが楽しい、という感覚は自分は「犬」に近いような気がする。夢中になるとはこういうことなのだなと思う間もない。走ってボールをもらうことだけに神経が向いてしまうので、気がつきゃ一時間なんてあっという間だ。
だから自分はそういうときの犬の気持ちがわかるのだ。いや、犬に確認を取ったわけではないんだけれども。
目の前のボールしか見えなくなって、首に巻かれたリードも忘れ全力疾走をかまし、リードの長さなどなんぼのもの、ばいーんと首吊り状態になってすっころぶ。
あれ、自分は笑えない。気持ちが高ぶりすぎてあほな行動をとってしまうのなんて、しょっちゅうなんで。

だから毎度タッチフットをすると、たはー、おれって犬やなあ。と思わずにいられない。

長くラグビー無宿状態の自分としては、そろそろ身を落ち着けてプレーをする場所が欲っせられる。
一匹狼(というより野良犬)でラグビーが出来るわけもなし、また楽しいわけもなし、本来イヌ科の獣は群れで生活するものなのだから、犬男たる自分にはそれが似つかわしいのだ。かっこつけているわけではない。自分には犬のようにあほな部分が、犬に悪いがたくさんあるのだっつうことを言いたいのである。
そういう自分がラグビーというスポーツを選んだのも、今思うと必然であったかも知らん。

ところでラグビーは一面、集団で狩をする狼の行動を垣間見ることができる。
一つの目的のために協力して動くということにも関して。
キックオフの前に雄たけびを上げてテンションをあげるところとか、なおさらに。

練習後ちくちくするのでひざを見ると、いつの間にか怪我をして血が出ていた。
怪我に気づかぬほど集中していたとは、おそらく脳内麻薬物質、エンドルフィンあたりもどっぷり出ていたのだろう、なんたら単純なことか自分よ。
犬が。

と、自虐をぶってみたところで楽しんだ後の疲れは心地よい。帰り、吉祥院から洛西口駅までほてほて歩くのにも、なかなか気分が良かったのである。

2009年3月12日木曜日

五十周年に向けてのわれわれ

先だっての日曜日、大学はヤスイさんの研究室にて、OBの集まりがあった。
主に五十周年記念冊子について、具体的に話し合った。
若手が多かったが、上の方々はタイゾウさん、アオヤマさん、カトウさんがお越しくだすっていた。
自分はほとんどいただけであったのだが、いくつか宿題をもらった。
他の参加者も仕事を振り分けられ、四月終わりを一つのめどに動き出そうという形になっている。よいものが出来るといいなあと思う。

この時期になると皆ぼちぼち次の動きをしはじめる話を聞くが、特に若手の方でそれが顕著であるように感じた。まあ当たり前なんだが。
西は佐賀へ、東は東京へ、海を越えてはスペインにフィリピン。籍を入れた、いまどこそこにいる、いや行方が知れぬ、などなど。
洗い直しが必要になっているからであるが、まあいろんなところに住み、いろいろな状態になっていはるものである。ほんでも、OBはOB、記憶のどこかしらに京芸ラグビーの文字を刻みつつ、日々を生きていはんねやなあと思うと、創部五十年という歴史がリアルに思われ、その遠大さに少しぼーっとなった。

そんな歴史の中にちょびっと身を寄せさせてもらっている自分としては、できるだけ迷惑をかけないようにこの五十周年記念の仕事にがんばろうと思うのである。

ところで、自分はまた性懲りもなく、せっかく行くしなとスパイクとジャージを持って行き、集まりの終わった後、グラウンドでボールを蹴った。
てってこてってこグラウンドを走っていると、ああ、やっぱり楽しいなあと思ったものである。
一人キックダッシュを何本か、息が上がった。

2009年3月5日木曜日

阿修羅・原

またはなしがダブるかも知れないが。

自分はプロレスが好きである。特に1970年代終わり、80年代初めの頃のプロレスが。

古館伊知郎の名実況と、山本小鉄の味のある解説、手に汗握ってテレビにかじりついたものだった。
新日本プロレスでは猪木がまだイノ鬼だった頃で、ジュニアヘビー級では佐山サトルの初代タイガーマスクが四次元殺法を繰り出し、イギリスからは「蛇の穴の刺客」スティーヴ・ライトなるわけのわからんレスラーがやってきたりしていた。

ああ、全日本の故ジャイアント馬場ももう少し動きに切れがあったなあ。
百の顔を持つ男、ミル・マスカラス、その弟ドスカラス。エル・サント。
人間山脈アンドレ・ザ・ジャイアント。
狂獣ブルーザー・ブロディ。
狂虎タイガー・ジェット・シン。
筋肉の表面張力、ダイナマイト・キッド。
鉄の爪、フリッツ・フォン・エリック。
テキサスブロンコ、テリー・ファンクにドリー・ファンクJr。
アブドラ・ザ・ブッチャー。
不沈鑑、スタン・ハンセンに超人、ハルク・ホーガン。
バッドニュース・アレンってのもいたなあ。

外人選手のインパクトが強いので思い出すままあげてみたが、
いやー、みんな濃かった濃かった。
ちびっ子は熱狂したもんである。


日本人選手のほうも木戸修、藤原嘉昭などの渋い選手が光っていて、現在おもしろお父っつぁんになっているアニマル浜口も現役だった。
その中にあって、天竜源一郎とよくタッグを組んでいた選手で、阿修羅・原というレスラーがいた。
スタイルは愚直の一言で、繰り出す技も体当たりとかラリアットとか、直線的なものばかりで、その不器用さが逆に目立っていたように思う。

この人、後で知ったことなのだが、伏見工業の山口総監督と同じ代の日本代表右プロップ、いわゆるタイトヘッドなのだったのである。近鉄でもプレーしていたらしい。
そしてこの人の代表時代の試合のビデオを偶然手に入れて観たことがある。相手はウェールズかスコットランド、山口監督は7番でプレイスキッカーだった。
原選手、面白いことにプロレスの動きとまったく一緒の体さばきで、ほんまに体当たりのタックルをする。かなり僅差の試合であったように記憶しているが、どうだっただろう。
本人はプロレスラーに転向してから、ラガーマンであったことを自ら語らなかったのではないか。そういうネタを言っていたのを知らないし、何より寡黙なレスラーだった。
しかし、時たまどこかでラグビーの練習はしていたということを知るにつけ、なんだか興味が出てくる。これはどのような‘OB‘なのだろうと。

だって元総理、元ワセダの森善郎みたいなOBもいるわけだから。
陰に日向にたくさんのOBが、当たり前だが、いる。

今度の3月8日の日曜、50周年記念の企画のOBの集まりが大学であり、そんな中でこの記事のことをふと思った。阿修羅・原のように、陰に隠れたOBさんたちの姿が見えてくるような記念誌を作ることが出来たらなとつらつら思う。

2009年2月17日火曜日

懺悔の学内展

正直なところ、最近自分は自分のことを「I am a 作家。」と思い込んでいた。
なんか変な自意識みたいなもんを持ってしまっていた。
否。自分はいまだ何者でもない。
ただの作品づくりが好きなおっさんにすぎないのだった、忘れとった。

制作展の学内展示を見に行ってそう痛感したのだった。
良い展示をしている人たちが多かった様に思う。
四回生や院生が中心だったせいもあったからか、気合の入った、しっかり見せてくれようとしているものがならんでいた。この場合、若さとか元気とか勢いとかいう言葉で差し引くものではないだろう。自分は内心「かなわねー!!」と叫び倒していたのである。
何か学生のほうが作家らしいものを作っているように思ったのは、自分の卑屈な感想からなのだろうか。

ともかく、自分を天狗鼻の未熟者めがとどつきまわしたくなったのだった。

学内展がまだ始まったばかりの頃、自分は暇で、よく大学のグラウンドでボールを蹴って一人練習をしていた。
それもグラウンドに展示されている誰かの作品の横で。もちろんその当時、罪の意識なんぞありはしない、ゼロだ。
今思い出すになんつー不届き千万なことをやっていたのかと恥ずかしい。いっぺんボールをぶつけてしまったことさえあった。
その作品の雰囲気を壊すことはなはだしい、一種のテロリズムであったわけだ。

認識不足というより、愚の一言であったわけだが、改善されたわけではなかった。
だって今回、どうせ学校に行くならと、ジャージとスパイクをかばんに入れ、あわよくば練習させてもらおうと思いながら学内展に足を運んだからである。
グラウンドに展示されていたのは、だれあろうウチヤマ君の作品であった。

「ウッチーごめん、グラウンドのはしっこで練習していい?」

と頼むつもりだった。
ああ、自分は最悪のOBである。

しかし、これは本音であるが、上の申し出をする気持ちは雲散霧消、思いとどまった。
この作品の雰囲気を壊してはいけないと、ふと思ったからである。「ふと」というところがどうもあかんのであるが。
そして自分が抱いていた思いの低俗さにわれながらさぶいぼの立つ思いであった。
そこでストップがかかっただけ、まだ自分にもまともな所があるのだなとも。
それだけ存在感のある作品だったのだろうそして冒頭の自分の思いにつながる。
いまここで練習なんかやったらいけない。と!
当たり前のことに三十路になってやっと気付くなんざあ、くっそー自分に腹が立つ。

そんな気持ちにかられつつ、しゃらずると学内をそぞろ歩くに、くわあ、また他にもいくつかこちらの襟をびしびしと正してくれるものもあるがな。帰り道、自分はむしろ懺悔の気持ちに襲われていたのであった。
ごめんなさい。
自分はまたがんばります。

ほんで今回言いたかったことは何かというと、学内展はなかなかによかったということでした。
あ、また「なかなかに」とか自分は書いとる。
こういう素直じゃない人間を自分の田舎では「しょうから」と呼ぶ。

2009年2月13日金曜日

時間といふもの・および挑戦として

先日記事に書いたクリスチャン・ロアマヌ選手のことについて、二次検査でも陽性となり、罪が確定してしまった。
チームは日本選手権出場を辞退、三月までの対外活動の自粛を宣言、ロアマヌ選手は退部という形になった。おそらく二度とトップリーグには戻って来れないであろうし、まともにラグビーが出来る場所にさえ帰ることは出来なかろう。
検査によってどの程度わかるのかは知らないが、直接的な吸引といわゆる伏流煙では、検査結果が変わってくるのかどうか。また、どの程度さかのぼって大麻吸引を証明できるのか、仮に体から排出されない反応物質があるのだとすれば、自分も陽性になってしまうなと思いつつ、なんにせよやりきれない思いにとらわれている。


先日京芸の制作展を見に行った。いつも思うに、足の踏み場もないほどの、ただただ一生懸命な作品(そうでないものもあるが)に囲まれると、元気をもらうことが出来るが疲れる。決して作品を見るのがいやではないのだが、自分の良くない癖なのだろうが、疲れるのだ。
しかしそして、自分も作品を作りたくなる。

大学を出て十年以上が過ぎた。そして何とはなしに、自分の周りの同回生で今でも制作活動をしている人を一人ひとり思い出しつつ挙げてみたのだが、125人の中で、半分も数えられなかった。
もちろんその活動を知らない人もいようし、就職してがんばっている人もいる。美術から足も洗うも続けるも、良い悪いなどでは全然ない。しかし、自分の今の立場から見て、本当に減ったものなのだなあとちょっと驚愕したのである。本当に半数にも満たないのではないか。

自分の場合卒業してから半年ほど経って、やっと「どんな状況でも作品を作り続けよう」という覚悟が出来た。今でも自分を売り込む方法とか今後の展開とか、よくわからない。
が、売れる売れないは関係なく、そりゃ売れて欲しいが、とにかく自分の好きなやり方で作ったモノを発表したいという思いは変わらない。とか言いながら明日「やーめた。」とか言っているかもしれないのだが、そうやって何とか今まで来た。
そうして制作展を(時間がなく駆け足だったのが申し訳ない所だが)見ていて、「この中でずっとやり続けていける人はどれほどいるのだろう。」という思いに支配されてしまった。あほな妄想相変わらずである。

そしてラグビーも。
制作とラグビーだきゃ死ぬまでやりたい。
物理的にいつか動けなくなって走ることもままならないようになるのだろうが、それまでは走りたい。しょーみな話し、いつまでできるか、挑戦中である(前も書いたか?)。および中国拳法と筋トレも。
ただ現在クラブチームにも行っておらず、ラグビープーな自分なので、たらたら理屈をこねていられるものでは本来ないのだが、自分を追い込む意味もあり、こんな事を書いているとも言える。どなたか、いいクラブチームご存知ではないですか。
そんなことを一生ぶつくさ言っているじーさんになりたくもある。
たぶんそういった目標やらを無くすと自分の場合、一気にボケてしまうだろうとも思うので。

非常に狭い独白の記事になってしまった。ご容赦願いたい。

2009年2月9日月曜日

ハッパはそんなにいいのかい?

日本代表選手クリスチャン・ロアマヌが大麻吸引の疑いでマイクロソフトカップ決勝に出ていなかった。
試合自体はそのことでかえってチームが結束した感のある東芝府中ブレイブルーパスが勝った。個人的には荒っぽさと上手さの同居する三洋電機が好きなのだが、これも勝負、是非もない。

しかし、やはりこういう悲しいことが起こると、何か盛り上がらない。たとえ疑いが晴れたにせよ、一次審査でクロになったという事実、何がしか灰色の部分が生まれてしまう。しかもここ最近、ラグビー関係で大麻に関する不祥事が続いている。好きでやっているこちらとしてはやりきれない思いだ。
東芝府中は、二次検査の結果によっては部として優勝を返上する意思であるという。ある期間のチームの出場停止もあったりするだろう。夢を抱いてプレーを見る子どももいるという中、その思いを踏みにじるようなことをしては、大人として絶対にいけない。
まだ検査結果が出たわけではないからなんともいえないのだが、残念なことである。

何でかと考えるに、海外と日本における「ハッパ」のありようのズレを考える。プロ選手はいざ知らず、海外にいると「みんな持ってる」事に驚く。
大麻をやる習慣が自分にはないのでわからないのだが、どこで手に入るのかなどは、やっている人には「すぐわかる」のだそうだ。
かつて旅行をしているとき、親の遺産を食いつぶしつつハッパを求めヨーロッパ中を旅をしているという日本人に会った。彼に会ったのはパリだったが、手馴れた感じで紙巻を作り、それこそタバコのように吸っていた。そういう人生もありかと自分は思った。
また、飲み屋(パリの)で友人二人と飲んでいると、その二人が「誰かやってるな」みたいなことを言うので何をだとたずねると。
「マリワナ」という。
何でわかるんだと重ねると「煙の匂いが違うんだ。タバコとはぜんぜん違う。」のだそうで。
ちなみにその店はタバコを吸う人ばっかりで天井近くは白く煙っていたのを記憶しているが、それでもわかるのだという。自分はちーともわからんかった。
ふーんと思っていたが、要するに日本とは違い、向こうでは結構当たり前の現象であって、吸っている人の絶対数も半端ではないのだなというのがわかった。
「文化」になってしまっとる部分もあるのではなかろうか。
そのことを実感したのが約十年前だったから、今最近、それが日本に広がってきたということなのかなとなんとなく思う。
そしてラグビー者はいろんな意味で善良でおおらかな人が多いから、すぐばれるのだ。
まあ笑ってられないことではあるが。

とにかく、悲しいと思ったので。

2009年2月2日月曜日

イメージが具現化する

前回の記事で「体で実感しないとイメージが形成されない。」ということを書いた。
今回はそれと180度違う意見を書いて「じゃあどないせっちゅうのん。」という突っ込みを受けてみようと思う。

わがカンフーマスター、チャーリー師父がよく言っていた。
念のために、これはたとえ話ではなく、実話である。チャーリーさんも実在の人物だ、日本人だけどね。
自分が北星寮に住んでいた頃、チャーリー師父は弟子の自分に太極拳を教えながらこう諭してくだすった。

曰く。
「脳天から糸で吊り下げられたように、首を伸ばし、肩を落として立つねんで。」
「空気の球をイメージして、その表面をなでおろしながら前へ押し出す。」
「臍下丹田にエネルギーがたまっていると思って。」
「両手につながったゴムを伸ばすように打ち出す。」

あるいは、踊りを舞っているようにも見える八卦掌の型を教えてくれていたとき。
それぞれの動きの意味を一つ一つ説明され、その動作の効果から相手を打ち倒すイメージを持ちながらでなければ、演舞の意味が無い。型のための型になってはいけないと繰り返し言われていた。
要約するとこうなる。
「イメージを確固たるものにすることで、実戦に役立てる。」
もう一つ。
「正確な動きをすることで、動作の効果を高める。」
とこういうことであったと記憶している。前回の自分の書いたこととはまったく逆であることがわかっていただけると思う。

動作への解釈を確固たる物とし、同時に一連の型の流れの中での無駄な動きをなくしていく、ということを繰り返していくとどうなるか。
動きが鋭く強くなっていくのである。
A点からB点への移動方法について、最短距離を、ということではない。最も効果的なコース(体重移動や歩法)をとるのだ。
この辺りの考え方はほかのスポーツでも共通するだろうし、体験されている方も多かろうと思う。それが理解できると、実践の動きも如実に変っていくのにはやっている本人が驚くほどである。

また、自分のラグビーの物理的な動きを決定的に変えたのは、平尾誠二著「イメージのマネージ」という「本」であった。
それまでただがむしゃらにやってればいいという発想で走っていた自分にとって、その本を読む前と後では、赤ちゃんの自分にいきなり陰毛が生えた位の驚きと成長があった。
すーっと試合の全体像が見えてくるのである。ポジション的にもその頃、No.8にコンバートしたからこそということもあったからかもしれない。
その本に書いてあったことの細部は忘れた。しかしとにかく、自分の思考の回路の配線を変えてくれたことははっきりいえる。
要約して憶えているのは「ボールを血液と考えるとFWやBKはそれを流す血管である。血流とそのテンポが滞らないように血管全体として整備しなければならない。流れ方はそれぞれであるが。」
とか
「BKラインは今まさにはじかれた板ばねである。WTBにボールが渡っていく中、プレーヤーは外に立つ者ほどその速度が速くなくてはならない。」
とか。
ラグビーが天候や戦術、指示の出し方や走る角度などもろもろをひっくるめてやるものだとか、果てはその内容はビジネスに対する考え方にまで拡がっていたのである。え、ビジネス?これラグビーの本じゃないの?と思ったものだ。
その当時の自分のラグビー脳が真っ白に近かったこともあり、目から鱗とはこのこと、百枚は落ちただろう。心の底からおったまげた。
もうちょっと早く知っていればそれまでの人生もう少し楽しめたかもと思うほどに。

イメージさえ持てば、中国拳法さえラグビーの役に立つのである、基礎的な体力をつけておく必要があるとはいえ。
まあようするに、バランスよくやってないといけないということなのだ。ここまでこんだけ書いといて結局それかいという事なのだが。
心と体のバランス。中国に言うところの陰陽五行図のように、陰と陽のバランスが整ってこそ世界の秩序は保たれるのである(なんじゃそら)。話の輪郭がえらい膨らんできたが、しかし、筋トレにおいても、今どこを鍛えているんだというイメージを持って臨むことで効果に差が出るというではないか。意識という形の無いもののあるなしで、筋肉という実体の発達が違ってくるのだ。考えてみれば不思議でしょそれって。

自分なりのはっきりしたイメージとナイスタックルの実感。その相関が試合の流れも左右しうる。ということにしてこの話を終わってもいいかな〜と思うのだがどうだろう。

2009年1月25日日曜日

亀岡は寒かったの巻

くやしい。一週間経ったがまだ悔しい。
亀岡での、対アウルOBとの試合である。

チームとしての実力の開きは正直なところ少なからず感じたが、なぜか「もっとできたはず。」という思いが消えない。
まあ、しょうがない。とか、負けたが気分はさわやか、という気持ちがいまだに湧いてこないのだ。これは相手がどうこうという事ではなく、恐らくは自分たちのほうに由来があるのだと思うのだが。
以下、全く以って自分の私見である。

経験値というものは大きいものだ。なかんずく、自分が属してきた集団のレベルによって、それは左右されていくものだと思う。
だから今回の場合、相手が小学校からの経験者で、伏見工業出身、という状況がくっついてきた場合、京芸の現役と比べた時に先の経験値や体力という部分ではどうしても差が生じるのは致し方ないことと思う。
それに、うちはミスが多く、そのために得点を重ねられた所も多かった。
しかしミスは必ず起きるものであるし、実際京芸は去年よりもいい試合をしていたように思う。みながんばっていた。
しかし、自分にいかんともしがたい気持ちが残るのはなぜなのか。

現役の助っ人で試合に入ると、いつも感じることだし、口にも出してしまうのだが(そのため現役にうるさい思いをさせてしまっているであろうことを申し訳なく思うのだが〉、特に相手に押されているときに何が必要かと言って、元気でもなく声かけでもなく、一発のいいタックルだと思う。

だから自分はつい「低いタックルだ」ということを怒鳴ってしまうのだが、しかし、それをどんなに言ってみたところで、言われた現役にとってみれば現実味のない怒号なのであろうと思う。
話が飛ぶが、「肉体は精神の牢獄」と言ったのはニーチェだったかなかったか。つまり頭で思うように動かない不自由な物が他でもない自分の体なのだということだ。おっそろしく強引な解釈だが。
これをスポーツに当てはめてみれば、いくら練習を積み重ねても、試合のイメージを作っていたとしても、現実の試合で練習どおりの動きはなかなかできるものではない。練習自体の意味は深いが、実戦の感覚は実戦でしか養われないからだ。
頭での理論や考え方ではなく、体で覚えない限り体は動かないのだと思う。

さらにたとえるなら、極端な例ながら、真剣での切り合いがそうだと聞く。
60〜70センチの刀で切り合う場合、相手との距離は驚くほど近い。しかも日本刀の力がもっとも有効なのは、切っ先から鍔元に向かいさらに10cm以上中に入った「ものうち」という部分なのだ。
それで戦おうと思えば、相手の息が自分の顔にかかるほど近くでなければ斬るものも斬れたものではないという。それでも相手の刃を避けて必殺の間合いに飛び込まねばならぬ感覚が、竹刀の稽古で獲得できるものだろうか。

タックルも同じものだろうと思う。大げさかもしれないが。
だからいくら練習しても、またいくら言葉を尽くしても、試合中ばちーんと相手のわき腹に突き刺さる感覚や間合いというのは「やらないとわからない」のだと信じる。

試合中、相手をカチ上げて仰向けに地面にひっくり返すタックルの効果と感覚をわかっている現役がいるかな〜と思う。そして早く知ってほしいし、またそれを体感できる場所は試合中でしかない。
だからつい、試合中現役にきつく言ってしまう自分を感じる。「もっとできるやろ!」思ってしまう。自分自身の経験で言うなら、今より一歩分深く踏み出せさえすれば相手の当たりをぬってナイスタックルが入るのだが。しかし同様に、その一歩に結構な勇気が必要なのもわかる分、現役たちの苦労もわかる気がしている。

よってもって、冒頭に上げた自分の気持ちが出てくる、つまりくやしい。体や経験に関係なく、一歩分の勇気、この場合根性と言ってもいいが、それが出せたら現役はもっといい試合ができるはずなのだ。
また難しいことを言いまくっているが、決して現役を批判しているのではない。ただ、知ってほしいのだ。
特に今回自分たちよりも強いと思われる相手に対して、上のことを試すにはいい機会であったし、それができたら勝てたかもしれないと本気で思っているので、また来年を楽しみにしておこう。
次やるときは勝つにも負けるにも、よし、と思える試合がしたい。


以上、自分のわがまま、私見を終わる。聞き流していただきたい。

2009年1月8日木曜日

お年始こもごも

年始に二つの新年会に呼ばれ、顔を出した。
一つはアンドウ君に声をかけてもらい、カトウさんのお店、よっしゃにて。
八人ほどいた中、同世代はフジサキ君だけで、後は七つ八つ下のメンバーたちだった。そういう席に呼んでいただけるのは幸運なことだと思うので、おいしくお酒をいただいた。テツオ君は大丈夫だったのだろうか、かなりキていたが・・・。

もう一つは自分の住んだ下宿、北星寮で生活していた先輩からのお誘い。
なんとその場に、今は千葉に住まわれる元CTBトキエダさんがおられた。やく十年ぶりの邂逅である。いや驚いたのだが、がっしと力をこめて握手。懐かしくてうれしくてちょっと泣きそうになった。後でユイさんも来られ、総勢六人ほどで飲んでいたのだが、自分以外は皆四つ上の先輩ばかり。最初の集まりとは反対に、今度は自分が一番下の世代という状況だった。
そこではお酒の入った勢いで、ラグビーに関係なくご縁が遠くなっていた人々に、今年もよろしく電話をかけまくるという迷惑な行動に出てしまい、後で少し反省した。しかしそれだけ楽しかったのである。夜も遅くに自分から電話のあった方、失礼いたしました。
このように短期間のうちに自分の周囲の状況が両極端の場にいたので、ちょとくらくらしたのだった。

閑話休題。
今月の十八日に亀岡にてラグビースクール「アウル」OBとの試合があるという。

去年と同じように現役主体で試合に臨むとのことであるようだが、前の試合を思い出すに、えらいやられたのを記憶している。
そら向こうはバリバリにやっていた人がほとんどであるから、実力の開きはあるものの、もう少し喰いつけるような気がしていた。なんか、お互いかみ合わなかったなあという気もしている。
というわけで自分の個人的な思いでまたかといった感じなのであるが。
考え方として「現役とOBの混成チーム」で捉えるというのはどうであろう。冬休み中で制作展前、現役は合わせもできていないし、もとより人数において不足がある。現役チーム主体という頭で組むには大変かと思うのだ。現在プレーヤー九人だと聞いている。
そこにOBを入れていくなら、いっそのこと最初から、リザーヴも含め勝てる布陣を敷いて臨むというのはどうであろうかと思ったりする。現役チームの固定ポジションにこだわらんでもいいのんちゃうかな〜、と。
そうすれば、現在若手OBでいきのいい面子が多い中、実力を発揮できることもできるのではなかろうか。現役に足りない部分を補うという意味でも。
その事がひいては、現役にとっても良い刺激になるんではないかとも思うのであるが、いかがなものか。お祭り的な要素の強い試合であるとも言えるし。だからといって出るなら手を抜くつもりはさらさら無いのだが。

ようするに、去年の反省として、自分としてはもっとやれたと思っていて、未消化な部分があったのである(それを一年間持ち続けた粘着気質な性格が自分でも怖いのだが)。
われわれの力だったらもっと面白い展開が作られたはず、という実感がどうしても消えないので。
というわけでどうせやるなら面白い試合をしたい。一月十八日の日曜に体の空いているOBの皆さん、特に若手。観戦、参戦、途中出場を問わず参加をお願いいたしたく、よろしくお願いします。


追伸
以上の文を現役キャプテンに見てもらったところ、現役なりの考えを聞くことができ、自分の「混成チーム論」は撤回することにした。なんとなくやる試合であれば持論をごり押ししようと思っていたが、そうでないことがわかったので、やめた。
自分は助っ人として頑張らせていただく所存である。