2012年12月2日日曜日

仲間、という言葉に照れつつ集い

泰造杯の記事を書くもなにも、どえらい間をあけてしまった。
個人的に思うところがまとまらなかったのと、馬鹿なのに風邪を
ひき、何年ぶりかで寝込んでしまったのと。
ま、ネタが無かったのであるな。

日本のラグビーって変わってきて、そして形が実を結んできた
のだ、と最近思った。
遠征してのテストマッチ、日本代表はルーマニア代表に勝った。
グルジアにも勝った。歴史的なことらしい。
筑波大学が帝京大学に勝ち、同立優勝を決めた。
どの試合も面白く見たが、どの試合も「考えてゲームを組み立てて
いる」のがよく分かりまた「勝ちに対する信念がぶれなかった」
のが感じられた。
ルーマニア戦、なかなかタフな内容だったが、直線的な力で
押してくるルーマニアのプレッシャーに耐えに耐え、チャンスを
逃さなかった。以前ならば、浮き足立ってしまう場面を、落ち着いて
クリアしていくのには唸らされた。
筑波大学、準備されたサインプレーを的確に決め、帝京を押さえ
込んでしまった感がある。
「このサインなら絶対トライが取れる、という形を持てば勝てる。」
現役の頃、コーヘーさんがよく言っていたこの言葉を思い出したが、
そんな勝ち方だった。
日本代表、筑波大、ともに闘志よりも、地道に積み重ねてきた
なにものかで力を発揮する姿が際立っていたと思う。

ラグビーは、差別を容認するスポーツだ。
大変前向きな意味で「平等」という言葉が成立しない。
各ポジションは適材適所でプレーヤーがあてられるが、逆に
ここはコイツにしかできない、ここにあいつはありえない、という
判断がなされる場面がある。
ま、当然のこととは言えるわけで、しかし、ために「等しい」という
内容が空虚にさえ思えてしまうのだ。
もちろん、一人ひとりのできること、できないことがあるのも当然で、
それら数ある欠点を補い合って力を補完し、むしろ少ない長所を
最大限高めるのが「チームプレー」の意味合いだと思う。
それを理解しているチームの中で試合をすると、レベルに関係なく
非常にラクで楽しい。

自分の腕がびよーんと伸び、数十メートル先でボールに絡んでいる
ような感覚さえある。
チームメイトが自分の手の届かないところでやってほしいことを
やってくれている、あるいは見えないところでそう動いてくれている、
あの体の輪郭がどこまでも拡がった感じ。
そう「感覚の共有」が良いチームの特徴なのである。
それこそ十五個の細胞で構成された単純かつ活発な一生物の
ような。

先に書いた日本代表と筑波大学、そんな印象を受けた。
で、そうなることができるメンバーこそこの場合仲間、と呼ぶことが
できるのではないか。
では、どうすればそうなれるのかというと、自分はようわからん。
でも、自分は現役最晩年でその感覚を覚え、OBチームではっきり
それを意識している。
あ、今はこのためにラグビーやってんだな俺は、と実感している。

それはOGも含め、「みなまで言わずともよい、わかっておるぞ。」
という間柄なのであって、まあ居心地が良いわけだな、うん。
自分だけの錯覚かもしれんな。ちょっと不安。

仲間!なんて大上段で構えるとムズムズてれが湧き上がってくる
のだが、さしあたってふさわしい言葉を思いつかないので。








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