くやしい。一週間経ったがまだ悔しい。
亀岡での、対アウルOBとの試合である。
チームとしての実力の開きは正直なところ少なからず感じたが、なぜか「もっとできたはず。」という思いが消えない。
まあ、しょうがない。とか、負けたが気分はさわやか、という気持ちがいまだに湧いてこないのだ。これは相手がどうこうという事ではなく、恐らくは自分たちのほうに由来があるのだと思うのだが。
以下、全く以って自分の私見である。
経験値というものは大きいものだ。なかんずく、自分が属してきた集団のレベルによって、それは左右されていくものだと思う。
だから今回の場合、相手が小学校からの経験者で、伏見工業出身、という状況がくっついてきた場合、京芸の現役と比べた時に先の経験値や体力という部分ではどうしても差が生じるのは致し方ないことと思う。
それに、うちはミスが多く、そのために得点を重ねられた所も多かった。
しかしミスは必ず起きるものであるし、実際京芸は去年よりもいい試合をしていたように思う。みながんばっていた。
しかし、自分にいかんともしがたい気持ちが残るのはなぜなのか。
現役の助っ人で試合に入ると、いつも感じることだし、口にも出してしまうのだが(そのため現役にうるさい思いをさせてしまっているであろうことを申し訳なく思うのだが〉、特に相手に押されているときに何が必要かと言って、元気でもなく声かけでもなく、一発のいいタックルだと思う。
だから自分はつい「低いタックルだ」ということを怒鳴ってしまうのだが、しかし、それをどんなに言ってみたところで、言われた現役にとってみれば現実味のない怒号なのであろうと思う。
話が飛ぶが、「肉体は精神の牢獄」と言ったのはニーチェだったかなかったか。つまり頭で思うように動かない不自由な物が他でもない自分の体なのだということだ。おっそろしく強引な解釈だが。
これをスポーツに当てはめてみれば、いくら練習を積み重ねても、試合のイメージを作っていたとしても、現実の試合で練習どおりの動きはなかなかできるものではない。練習自体の意味は深いが、実戦の感覚は実戦でしか養われないからだ。
頭での理論や考え方ではなく、体で覚えない限り体は動かないのだと思う。
さらにたとえるなら、極端な例ながら、真剣での切り合いがそうだと聞く。
60〜70センチの刀で切り合う場合、相手との距離は驚くほど近い。しかも日本刀の力がもっとも有効なのは、切っ先から鍔元に向かいさらに10cm以上中に入った「ものうち」という部分なのだ。
それで戦おうと思えば、相手の息が自分の顔にかかるほど近くでなければ斬るものも斬れたものではないという。それでも相手の刃を避けて必殺の間合いに飛び込まねばならぬ感覚が、竹刀の稽古で獲得できるものだろうか。
タックルも同じものだろうと思う。大げさかもしれないが。
だからいくら練習しても、またいくら言葉を尽くしても、試合中ばちーんと相手のわき腹に突き刺さる感覚や間合いというのは「やらないとわからない」のだと信じる。
試合中、相手をカチ上げて仰向けに地面にひっくり返すタックルの効果と感覚をわかっている現役がいるかな〜と思う。そして早く知ってほしいし、またそれを体感できる場所は試合中でしかない。
だからつい、試合中現役にきつく言ってしまう自分を感じる。「もっとできるやろ!」思ってしまう。自分自身の経験で言うなら、今より一歩分深く踏み出せさえすれば相手の当たりをぬってナイスタックルが入るのだが。しかし同様に、その一歩に結構な勇気が必要なのもわかる分、現役たちの苦労もわかる気がしている。
よってもって、冒頭に上げた自分の気持ちが出てくる、つまりくやしい。体や経験に関係なく、一歩分の勇気、この場合根性と言ってもいいが、それが出せたら現役はもっといい試合ができるはずなのだ。
また難しいことを言いまくっているが、決して現役を批判しているのではない。ただ、知ってほしいのだ。
特に今回自分たちよりも強いと思われる相手に対して、上のことを試すにはいい機会であったし、それができたら勝てたかもしれないと本気で思っているので、また来年を楽しみにしておこう。
次やるときは勝つにも負けるにも、よし、と思える試合がしたい。
以上、自分のわがまま、私見を終わる。聞き流していただきたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿