馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯は天の赦す所
楽しまずんば是如何
伊達政宗、晩年の五言絶句である。
いろんな解釈があるようだが、自分はこれ、われわれラグビー部OB・OGの気持ち
そのまんまなんでないかと思う。
若い頃は戦いに過ごし、年月は流れ歳をとり、生き長らえてしまったが、そこはまあ
許してもらえるだろ、あとは楽しくやらせてもらおうじゃないか。
なんとはなく、我々が抱える思いに通ずるところはないだろうか。
そりゃあ戦国時代と京芸ラグビー部を比べるなんてのは強引に過ぎるだろうが、しかし、
そこは心情としてである。
現役生の頃の思い出が鮮烈であるだけに、またそれが大きいほどに、卒業してからの時間が
経てばたつほど、懐かしさと言うものが肥大していく。少なくとも自分は、そういった記憶を
相対化して割り切ってしまうのが苦手だ、うまく処理できない。ちょっと気を緩めるとその辺の
感情がだだ漏れになってしまうのだ。
同時にそれがあるからこそ、今でもラグビーと関わり続けていたいと思っていられるということでもある。
そして その懐かしさはほろ苦い。なぜなら、関わるといっても、学生の頃に打ち込んだのと同じ
テンションでラグビーと向き合うことはもうないからである。
真の意味でがむしゃらに走り回っていたあの時期の心境で今も おられたら、とふと考える。
真摯であろうとはいつも思う。しかし、もう同質の気持ちでいることはできないのだ。大体、
そのままで歳を重ねてしまっていたらかえって問題だ。
その変化はもうしょうがないことで、どうしようもなく当たり前のことである。
だが、「しょうがないのだ」と自分に言い聞かせて、気持ちの変化を正当化している自分が
いることにも気づく。まだそんなこと考えてんのかいな、とっくの昔に引退してるくせにやめとけ、と。
こういう思いにとらわれていること自体、けっこう照れくさい。がきんちょの自分と思いっきり
向き合ってしまうからだ。そんなとき、われわれは笑う。たはは、あるいはにやり、といった
感じの種類の笑い方で、しかし目元はうれしげに。
昨日の50周年パーティーで、スクリーンに各時代の写真がスライドで延々流された。
その中で会場を見回すと、そんな笑顔がずらっとならんでいた。自分は、そちらの方がぐっと来たのだ。
みな、いい顔をしておられたと思う。
伊達政宗は、上の詩を詠んだときに、恐らく昨日のわれわれと同じ気分だったのだ。
若い頃の自分を懐かしみつつも二度と戻れない小さな寂しさ、それを感じつつ、きっと
同じように酒を飲んでいたに違いない。そして近くひかえる若者に語ったはずだ、
「今は天下太平の世だが、わしの若い頃はな・・・。」てな風に。
おんなじだ、OBと。
50周年記念パーティー。
自分に限っては、非常に懐かしく、ちびっとほろ苦かった。では楽しくなかったのか。
そんなわけはない、ちょう楽しかった。学生の頃に戻ったかというほどのうきうき感であった。
これだからOBはやめられんなあ、とビール飲みながら思ったわけだ。
そう、楽しまずんば是如何なのである。
だから昔を懐かしむ戦国OB伊達政宗の晩年は、ハッピーだっただろうと思わずにはおれない。
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