自分はラグビーに出会って何を得たのかとよく思う。
引退した今でも顔を大きくして試合や練習に出ていくのはなぜか。
それは自分の場合、畢竟自己確認、自己肯定、ひいては自己愛を
満たすため以外にないのかもな、などと思てしまっている。
後輩のためとか、活動活性化のためとかいう理由は、自分が
ラグビーを楽しんだその後についてくる「建前」であって、
根底には上の超個人的な欲求がわだかまっているだけなのかも
しれない。不毛・不純というほかないが、ま、正直なところで。
そんな俗な自分が、正味なはなし人間としてラグビーから何を
学んだのか、今もってよくわからない。
マーク・ビンガム。アメリカ、サンフランシスコ・フォグRFCの
スター選手だった。その名は古い雑誌をめくっていて偶然見つけた
のだが、その記事はアメリカ同時多発テロに関したもので、
ハイジャックされた旅客機のうちの一機UA93便の中で、犯人に
対して戦いを挑んだ乗客たちのあったことを伝えていた。占拠され、
アメリカ国防総省に突っ込むため進路を変えた機の中で、テロリスト
に抗った人々の中心にビンガム氏はいたのだという。
結果、飛行機はペンタゴンに激突することなく、ピッツバーグの
森に墜落する。犯人たちが目的達成を不可能と見、自ら操縦桿を
地面に向けたのである。乗員乗客45人と犯人は全員死亡したが、
それ以上の惨禍を招くことなかった。
最悪の事態であることに変わりはない。しかし彼ら乗客のはたらき
は、最悪の度合いを深めることを阻んだ。
ハイジャックというこれ以上ないような極限状態、なおかつ自分の
命がいずれにしろ助からない算段は高いという中、それでもなお、
どうして武装したテロリストに抗って戦うという選択をビンガム氏
含む乗客らはできたのか。
ラグビーは、生々しい自己犠牲の上に成り立つ側面を持つ。おわかり
のようにそうしないと成り立たないからだ。また、その試合の
緊張感の高いほど、プレーヤーは勝敗そのものよりも、チームメイト
それぞれのために走るようになる。点差がどうしようもない状態で
あっても、ノーサイドまで全力で走り続けるのは多分それが理由
だからだ。どんなに点差が開いていても、途中で試合を投げ出す
選手を見たことはない。
自分のポジション性もあるのかもしれないが、「チームのために
ボールを出す。」「チームの仲間のために体をはる。」というのが
試合中の最優先課題になってしまっているのに気付く。
勝敗は大事だ。皆勝つために練習をしている。しかし試合が一旦
始まれば勝った負けたは結果であり、要は設定した目標のため、
いかに自分がチームの動きに貢献できたか、仲間の助けになれたか
が問題になるのであり、結果ではなくそこに至る過程がどうで
あったかの話になる。当然のことながらそれは言葉でなく、実際の
行動にしか表れない。単純にしてわかりやすい事実である。
皆同じようなものだと思っているが、自分が今どうするべきか、
何が一番大事なのか。たぶん試合中、頭の中にはそれしかないし
(といいつつ、ペナルティの多い自分であるが)、それ以外の
ことを考える余裕もない。で、その感覚が時に、勝敗よりも重要な
意味を持つときがある。「次につながるものがあった。」という
実感が得られるかどうか、である。
これのあるなしは、試合後のチームの雰囲気にはっきり出てくる
もので、理屈で納得できる種類のものではない。
次につながる実感は、未来への前向きな気持ちにつながる。
ビンガム氏のはなしを調べるうち、彼の行動の背景には、上の
ような、至極ラグビー的な行動原理が働いていたのではなかろうか。
彼は、ラグビーの試合の時と同じように思い、戦ったのではないか。
そこに自分の命が助かるという考えがあったようには思えない。
試合開始の瞬間と同じく「腹をくくって」いたのだろう。加えて、
自身の同性愛という誤解を招きやすい個性を隠さず、かつラグビーを
プレーし続けていた彼の生き方を考えるとき、そう思わずには
おれない。彼は、徹頭徹尾尊敬すべきラガーマンであった。その
人間性は、ラグビーによって強固な意志に彩られていた。
だからこそ彼はテロルに屈することなく戦った。
そう思うのは感傷的すぎるだろうか。確かにビンガム氏は、ラグビー
から何かを与えられていたのだ。
ひるがえって自分が仮に同じような状況に陥った場合、はたして同じ
ように行動することができるのかと考えた時、ビンガム氏をはじめ
一致団結してテロリストに抗った乗客の方たちに、心からの敬意を
覚えずにはおれない。
そして、あらためて自分はラグビーから何を得たのかと考える。
また、ビンガム氏の名を冠する同性愛者のラグビーワールド
カップがあることを知った。
ビンガムカップ。彼の行動は、また確かに、上に書いたような
「次につながる何か」を形にしたのだ。その大会の存在が、
ラグビーの素晴らしさをさらに輝かせるものに思える。
そしてテロルにみまわれた被害者達の存在をも意識させてくれる。
もっとも、テロリズムの周囲に立つものに加害者など存在しない。
あるのは果てしない「被害者」の群れだけである。偏った考えに
染められて無差別に第三者の命を奪うことに疑問も感じず、はては
自爆テロをはじめ自分の命さえごみのように投げ出す実行犯さえ、
ある意味テロルの被害者と言えはしないか。それに巻き込まれた
人たちこそ悲劇以外の何物でもないのだが。
情状酌量の余地はない。しかしテロルの実行犯だって、悪人ではなく、
むしろ「真面目に自分たちの主張を信じる一途な人間達」だったと
言えないか。なぜ「真面目で一途な人間」が殺人、自爆の道を
選ばねばならなかったのか。問題はどこにあるのか。
岡目八目、言うだけは簡単な蚊帳の外の日本人の自分が偉そうな
ことをいうことはできないが、決して遠い世界の出来事ではない。
一体、原因はどこにあり、どこから仕掛けられたものなのか。
それこそお互いの代表チームを作って、ラグビーで勝敗を決めれば
いいのに。
それなら最後はノーサイド、どちらがどうということもなく、
残るのはお互いを称えあう気持ちだけなのであろうに。
最後に、ビンガム氏とともに戦った乗客の中にジェレミー・グリック
という人がいた。彼は柔道を学び、全米大学柔道選手権で優勝する
ほどの実力者だった。彼も、自らの命の危機の中、ハイジャック犯に
戦いを挑んだのだという。恐らく、彼もビンガム氏と同じ気持ち
だったのではないか。柔道家として、柔道の理念「精力善用・自他共栄」
を当然のごとく実践したのではなかったか。
ラグビーと柔道、二つながら自分の経験したスポーツであり、
少なからず影響を受けたと思っている。自分は、二つから一体
何を学び得たのか。
これだけは言える。マーク・ビンガムとジェレミー・グリック。
彼らは自身が経験したスポーツ(武道)の精神を自らの人間性に
昇華させ、それを実行し得た稀有な人々であり、その行為は
スポーツマンが目指すべき形そのものだったのではないか。
背筋の伸びる思いがするのである。
背筋の伸びる思いがするのである。
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