スポーツと社会のありようについてふと気づいたことが、プロレスに関してある。
我々1970年代中盤世代が小学校の半ばから中学校に差し掛かるころ、徐々に
プロレス文化が衰退し始めた。テレビ放送は深夜枠となり、観客動員も減って
いった。
いわゆる「インディーズ時代」と呼ばれる、ややアンダーグラウンドな状態に
入っていくのだが、プロレス人気の縮小に反比例する形で、不思議と時期を
おなじゅうして増えていったものがある。
少年犯罪。
それも、やんちゃくれな兄ちゃんが暴れるとかいった単純なものではなく、なんと
言おうかもっと闇の深い、ちょっと自分では理解のしがたい類のものが突然出て
きたように記憶している。
いちいち例を挙げるのはここではおくとして、それまで報道される機会がなかっ
ただけなのかよくわからないが、中には酸鼻を極めるものもあるのをご記憶の
ただけなのかよくわからないが、中には酸鼻を極めるものもあるのをご記憶の
方々も多かろう。
加えて奇妙だったのは、犯人となった少年たちから出る犯行動機の、起こした
事象と全くつりあいの取れない短絡さ・幼稚さだった。
事象と全くつりあいの取れない短絡さ・幼稚さだった。
動機を抱いて行動に飛躍するまでの脈絡があまりにもないのだ。
自分の欲求や衝動は、体の輪郭を超えない限り、虚構の域を出ない。絵空事同然
である。ただしそれを実体とするときには、かなりのエネルギーを必要とする。んで
その欲求・衝動が反社会的であればあるほど、実行の主体となる人間には大きな
負荷がかかるはずだと思う。
簡単に言ったら、犯罪を実行に移すまでに必要な(へんな言葉だが)勇気とか、
苦痛、うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ、あるいは思想など。そんなものがかなり高まら
ないと、なかなか重大な犯罪を実行するなんてことは不可能だと思うのだ。
苦痛、うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ、あるいは思想など。そんなものがかなり高まら
ないと、なかなか重大な犯罪を実行するなんてことは不可能だと思うのだ。
嫌いな相手とはいえ、なんぼなんでもその命をすぐ奪ったろうなんては思いません
わな普通。
わな普通。
安易に極端な行動を避けようとする「ストッパー」が我々の中にはあり、そのタガが
外れてしまう状態なんてなあ、およそ異常といっていいと思う。
(ただし、原理主義的な思想の中に生きる人間においては別の話だが。)
しかし昨今の犯罪において、そのストッパーが外れるレベルというのが、我々の持つ
感覚からは拍子抜けするほどに低い。「え?そんなんで??」と声を上げたくなるほど
に。
「ちょっと試してみたかったから」人を傷つけ、態度を注意されたから「ふと殺そう」
と思う心理を理解できる人、ハイ、挙手願います。
自分も、妄想の中でならいくらでも世界を壊滅させたり、無差別殺人をやってみたり
なんかはした(ちなみにその出で立ちは、赤い越中ふんどし一丁に南蛮渡来の鉄兜を
かぶり、全身金粉塗りで真珠のネックレスを打ち振りつつ、刃渡り2メートルの大太刀
を奇声とともに振り回しながら、東京は銀座三越ビルの前を全力疾走で駆け抜けると
いうものであった)が。
でも、それを実行に移したことはない。だっていやだもん。
では、なぜに「だっていやだもん」の心理がなくなってしまうのか。
なんか、記事が泥沼化してきた気がするが、まだ書く。
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