2012年2月15日水曜日

プロレスと私

性懲りもなく先年からの続きでござあす。

スポーツと社会のありようについてふと気づいたことが、プロレスに関してある。
我々1970年代中盤世代が小学校の半ばから中学校に差し掛かるころ、徐々に
プロレス文化が衰退し始めた。テレビ放送は深夜枠となり、観客動員も減って
いった。
いわゆる「インディーズ時代」と呼ばれる、ややアンダーグラウンドな状態に
入っていくのだが、プロレス人気の縮小に反比例する形で、不思議と時期を
おなじゅうして増えていったものがある。

少年犯罪。

それも、やんちゃくれな兄ちゃんが暴れるとかいった単純なものではなく、なんと
言おうかもっと闇の深い、ちょっと自分では理解のしがたい類のものが突然出て
きたように記憶している。
いちいち例を挙げるのはここではおくとして、それまで報道される機会がなかっ
ただけなのかよくわからないが、中には酸鼻を極めるものもあるのをご記憶の
方々も多かろう。
加えて奇妙だったのは、犯人となった少年たちから出る犯行動機の、起こした
事象と全くつりあいの取れない短絡さ・幼稚さだった。
動機を抱いて行動に飛躍するまでの脈絡があまりにもないのだ。

自分の欲求や衝動は、体の輪郭を超えない限り、虚構の域を出ない。絵空事同然
である。ただしそれを実体とするときには、かなりのエネルギーを必要とする。んで
その欲求・衝動が反社会的であればあるほど、実行の主体となる人間には大きな
負荷がかかるはずだと思う。
簡単に言ったら、犯罪を実行に移すまでに必要な(へんな言葉だが)勇気とか、
苦痛、うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ、あるいは思想など。そんなものがかなり高まら
ないと、なかなか重大な犯罪を実行するなんてことは不可能だと思うのだ。
嫌いな相手とはいえ、なんぼなんでもその命をすぐ奪ったろうなんては思いません
わな普通。
安易に極端な行動を避けようとする「ストッパー」が我々の中にはあり、そのタガが
外れてしまう状態なんてなあ、およそ異常といっていいと思う。
(ただし、原理主義的な思想の中に生きる人間においては別の話だが。)

しかし昨今の犯罪において、そのストッパーが外れるレベルというのが、我々の持つ
感覚からは拍子抜けするほどに低い。「え?そんなんで??」と声を上げたくなるほど
に。
「ちょっと試してみたかったから」人を傷つけ、態度を注意されたから「ふと殺そう」
と思う心理を理解できる人、ハイ、挙手願います。

自分も、妄想の中でならいくらでも世界を壊滅させたり、無差別殺人をやってみたり
なんかはした(ちなみにその出で立ちは、赤い越中ふんどし一丁に南蛮渡来の鉄兜を
かぶり、全身金粉塗りで真珠のネックレスを打ち振りつつ、刃渡り2メートルの大太刀
を奇声とともに振り回しながら、東京は銀座三越ビルの前を全力疾走で駆け抜けると
いうものであった)が。
でも、それを実行に移したことはない。だっていやだもん。
では、なぜに「だっていやだもん」の心理がなくなってしまうのか。

なんか、記事が泥沼化してきた気がするが、まだ書く。

2012年2月9日木曜日

陽にかみついてほとけを拝め

謹賀新年ぼなねレザムール。
先年末からこっち、記事も書かんと何を自分はさらしていたかというと、
なにもやっていない。廃人であった。
年賀状も書かない不義理な自分である。
自分の感覚としては今ごろが年明けの実感が芽生えてきたので、なので
今が自分の新年あけましたな状態。で、あるからして新年のご挨拶という
わけだが。
この新年ボケは、今年の大晦日までには元にもどせるかと。
OBブログもがんばって書いていく所存であります。
みなみな様におかれましても、つつがなき一年であられますようお祈り
申し上げます。
ラグビーにさちあれ。戦士には栄光あれ。

2011年12月10日土曜日

四角いマットのジャングルに2

また、プロレスの話に戻り。
無論のこと、ラグビーとともに、自分はプロレス者である。
四角いマットに愛さえ抱いている。
といって、会場に足を運ぶわけではない。
しかし、愛している。
一言で言うと、自分にとっては、漫画やアニメに近い感覚がある。
すなわち「イマジネーションの刺激と拡張の快感励起装置」としての娯楽である。
なんや知らん小難しいことをのたまってけつかる、と思うなかれ。
この「装置」の存在は、おそらく人間の大脳新皮質、および前頭葉あたりに
びしびしとからんでくるもののように思われるわけだが。

たとえば米国におけるプロレスはその人気が半端でなく、全米での興行はWWE
という団体の独壇場であり、チケット販売開始ものの数十秒で売り切れになる
という人気である。あの広い米国でだ。スタジアムはいつも満杯。
形は各州各都市ををドサ回りしているのだが、プロデュースの徹底ぶりが
すばらしい。まさにアメリカ的。ドルかけたはるなあと思う。
正しいなと思うのは、自分たちのあり方の意味を良くわかっておられて、
イラク問題のさなかに現地で慰問興行を行い、兵士たちを楽しませるなんてことも
していて、エンターテイナーたることを貫いているのである。
さて、冒頭に漫画やアニメに近い感覚、と書いたが、こういう理由による。
まずは選手すべてのキャラが立ちまくっていてくらくらする。
そしてみんなが「I am a king!!」と叫びのたまってはばからない。
・大巨人 ビッグショー (213cm)
・ラッパーチャンプ ジョン・シナ
・地獄の墓堀人 アンダーテイカー(最近見ない)
・謎のマスクマン レイ・ミステリオ
・仲間に裏切られ、復讐のサイコ野郎と化した男 コーディ・ローズ
等等。
どうですか、このメンバーだけでも、試合を見たくなったのではありませんか。
新人アルベルト・デル・リオのプロフィールなんかこうだ。
「メキシコのエリート階級からWWEヘとやって来たアルベルト・デル・リオ。
裕福な階級の生まれで、スペインの王族であるフェルナンド王とイザベラ王女の血を
引くとも言われている。教育レベル、ユーモアセンス、そのどれからも王族の気品、
威厳を感じ取ることが出来るだろう。彼こそ無限の才能を秘めたスーパースターなのだ。」
すごいと思う。
いや、ほんまにそうなのかもわからん。しかし、これはもう漫画の世界だ。
もっというなら、荒唐無稽、という虚構が少なくとも表面上は真実としてまかり通るこの
状況。ほんまの意味で3Dコンピューターグラッフィックに血肉がついた、ということ
といって過言でない。
それを嘘という言葉で処理するのは安易。思考の停止に逃げ込むことに如かず。
あるがままに受け入れ、それを楽しむということこそ、エンターテインメントを観る者の
態度であるし、そうでないと面白くない。「ガチンコか否か」という判断基準で論じる
ものでは土台ないのだ。
畢竟、どんなスポーツであろうが観客がいるという状態はそれは「娯楽」以外の何者
でもないのであって、必然的に楽しくないといけない。言い換えれば「楽しけりゃいい」
のである。スポーツにおいて、本気の度合いを価値のパラメータとするなら、いつか
死人が出る。それを突き詰めていくと、古代ローマの剣闘士の殺し合いを見て楽しむ
状態、猟奇とかフェティシズムになっていくと思うのだが。
それってどうよ。
自分は、本気で戦って血を流し消耗する選手を見て、「よしよし」と納得する気には
なれない。まかりまちがって命を落とした選手に向かって、「よくやった、それでこそ
スポーツマンの鑑。」と拍手を送るのか?その感覚はおかしい。
本気、ガチでやるかどうかは試合場に立つものの心一つなのであって、観る者は楽しめ
ばそれでよい。八百長によって白けさせることがプロとして失格なのであって、問題は
単純にそこだけであるはず。
観客に少しばかり楽しむ心とイマジネーションがあれば、虚構さえ最高の娯楽になる
はずなのだ。
相撲の八百長問題だってそうである。八百長という言葉に抽出し尽くして遊びをなく
せば、それは長期的に見て力士に死を強要するに等しい。相撲がどれだけ過酷なもの
か、理解したうえでバッシングするのか。それを極端というなら、「八百長はいけな
いが、さじ加減は考えてね♪」とでもアドヴァイスするのか。
それではお相撲さんがかわいそうである。
本当は相撲協会の人はこう言いたい筈だ。「今までずっとそうやって来たんだよ!!」
と。
そうやって日本の社会と持ちつ持たれつで来たのに、なぜ今さらそんなことになる
のか。

プロレスの抱える現代の状況も、それがそのまま当てはまる。
エンターテインメントにおける日本と欧米の認識の違いもあるが、これにははっきり
とした理由がある。
そのキーワードとは、現代日本人のイメージ力の鈍化にある。
つづく。
ごめんなさい超一人よがり記事。しかし楽しくなってきたのでまだまだ書くのである。