2013年9月16日月曜日

蓼にしびれた舌、変な味のお茶の夜 2

たぶん、手前勝手に走り、普段よりさらに読みにくい文になっていると思う。
ひらにご容赦願いたい。

8月11日の夜にお誘いを頂き、食事会は12日の夜であった。
自分は12・13日と仕事があったので、夜遅くに行かせてもらい、一時間ほどで
おいとまごいということになってしまった。
セイジさんにお会いするとき、なぜか自分はいつもこうなんである。
行くといえば遅刻し、帰るとなれば妙なタイミングで。畢竟、自分が不義理な
人間であるということの証なんだろう。

ところで食事会の当日、12日の朝ちょいと奇妙なことがあった。
自分は大阪八尾のショッピングモールにいた。んで、そこで仕事の道具を
広げると、全く唐突に自分の目の前にカブトムシが現れた。
本当に唐突に、ころり、と。
普通ありえない状況だと思う。
なぜに?とひとりごちてしまった。

偶然としてもいいだろう。こういうこともあるだろう。
しかし選びも選んだりこの日このタイミングで出てきてもらっては、その事象の
裏側にある意味を考えたくなってしまってもしょうがないではないか。
自分は、あ、そういうことか、と思った。
あれだ。いわゆる虫の知らせというよりは、「先触れ」というやつである。
雨の前の蛙の声、春の前に萌える蕗の薹。
何かの始まる前に姿を現すなにか。
おそらく、こんなのはそう不思議なことでもないと思う。
というよりも、「だいじょぶかおまえ、ちゃんと来れるんやろうな?」と、
ご心配いただいた上で送られたお使いだったのかもしれんな。

自分は霊とかあの世とか、ようわからん。
無ければ無いでそれはそれ、あればあるでいつか自分もお世話になる場所
ではあるのだから、どうぞよろしうくらいの認識である。
しかし、縁というものは信じている。
縁が重なったり離れたり、ちょっとからんだりしながら人と人とは生きている。
今できた縁の震えが、後に伝わって何かを起こす。
うまく言えないが、自分がラグビーを始めたときから、何かしらこうした
つながりができ、新しい枝分かれを生み出してきたのだ。
物理学の世界では、「超弦論」という仮説があると聞く。宇宙の中にあまねく
すべてのものは、目に見えぬ「弦」でつながっており、その振動が
影響しあってすべての出来事が起こるのだとか。
科学の世界でそんなことが議論にのぼるなら、縁の話を信じたって
おかしくはなかろう。
とにかく自分はカブトムシを見て、これも何かの縁やなと、立派な角のそいつを
ダンボール箱に入れた。

もうそうなると頭の中は「セイジさんちとカブトムシ、セイジさんちとカブトムシ」
で一杯になってくるのであって、仕事終わりが待ち遠しかった。
だが結局、セイジサンのお宅のある京阪鳥羽街道に着いたのは、夜も
九時を大分過ぎてからであったわけだが。




駅で程なくフジサキ君と会った。なんと七・八年ぶりとなる。しかし、
その挨拶といえばトーンの低い「おう。」「久しぶり。」の一言づつで終わった。
ま、そんなもんである。

お宅には、わざわざ出迎えに来てくれたセイジさん息・タイチ君に連れて
行ってもらった。
玲子夫人、タイチ君、ナカノ夫妻、オオコウチさん、フジサキ君、わての
正味七人の集まりとなった。夜遅くにもかかわらず皆さんこころよく
迎えてくだすった。
さっそく、そしてやっとお仏壇に向かわせていただいた。
「おそくなりました、いつもいつもすいません。自分は何とか生きて
おります。」
手を合わせて思えたことといえばそれだけだ。
あとは、まったりゆったりさせていただいた。それがなんともよかった。

ナカノ君は、なかなか忙しいらしい。フジサキ君も、忙しいらしい。
なになに、タイチ君は医療系の造形を学んでいる、そうかーすごいなあ。
おれ?全然かわんねえなあ。
そしてこの文の冒頭の、夫人玲子さんのお話になっていくのだった。
正直、いとまごいするのは大変申し訳なかった。

こうして故人の名において人の集まる場も含め、冠婚葬祭、折に
触れての行事は、今を生きるものたちが集まり、お互いを確かめ合う場に
他ならない。それはうれしいことだ。
言い方を変えれば、その場にいる人々を集めてくだすったのだ。だれが?
そらセイジさんに決まってる。それは徳とも言っていいし、セイジさんの
まさにお力なのだろう。一人駅のホームで座っている間、思い出していた。
「インディアンの言葉」という本の中の一説。

「(前略)かつてその場所に住み、今もその土地のことを愛している、
無数の死霊が、そこにひしめき合っているのだ。(中略)死者にも、
力はあるのだ。おおこれはしたり、私は『死者』などと言ってしまった。
だが、本当のことを言えば、死などというものは存在しないのだ。
そのときは、世界が位相を変えるだけなのだから。」

シアトル族の首長が語ったこの言葉が本当なら、いつかセイジさんに
お会いできるのだろう。そのときこそ遅刻も中座もせず、ゆっくり
語り合うこともできるだろう。たぶん場所は、京芸グラウンドやろな。
などと。
ああ、やっぱり自己完結に持っていってけつかる。でも、絶対向こうで
会うんだぜ。
夜も十一時のことであった。


さて、蓼のことである。たいした刺激も感じなかったもので、夫人の
注意も気にせずパクパク食べていたのだが、帰りの電車で驚いた。
舌の感覚がおかしくなり、味覚が変になってしまっていたのである。
酔い覚ましに買ったお茶がとんでもない味になっとった。
飲むもの食べるもの、全く記憶にない味に変化するもんだから、
衝撃というより新鮮だった。
ただまあおいしく変化してくれたらよかったのだが、なんだか
わからないテイストになるもんで苦悩した。それが三日続いたのである。
恐るべしあなどりがたし岩国の蓼。
その三日間、頭の中は「セイジさんカブトムシ蓼、セイジさんカブトムシ蓼」
で一杯だった。なにかのいたずらっぽい罰であったのだろうなあ。
ちなみにカブトムシは、自分の家の庭に放した。


まろび出て 盆と来にけり かぶとむし

蓼草に 盆告げられて でんしゃみち

右手(めて)に酒 盆に回向の うたげかな


へたくそな句ながら、ご勘弁を。
お集まりであった皆さん、ありがとうございました。







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